琵琶湖の北に琵琶湖のしずくとでも言うような小さな湖があります。
余呉湖です。その大昔、琵琶湖の一部であったそうです。
そこそこ大きいんですが、琵琶湖との比較となるとね・・・(;^ω^)
その湖を囲む”ドーナツ”状の山塊の南部分にあるのが賤ケ岳、歴史的な位置関係で言うとこの一帯が包括的に”賤ケ岳”でよさそうです。
歴史的に・・とかそんな古い話されても知らんし・・ という方もきっといらっしゃるでしょうから、一般論で知るところを書いてみます。
もちろん正確かわかりませんが、”・・と言われている”話と大きく違わないと思います。
天下統一を目前に信長と既に家督を譲った継嗣が同時に謀叛に倒れます。
謀叛人明智光秀を討ったのが秀吉。
これにより秀吉の存在感は極めて大きくなります。
信長の葬儀の”執行委員長”を務めるは、謀叛後の織田家の存続体制を定める清州会議で主導権を握るは・・
このままでは織田政権は、秀吉に奪われてしまう・・そんな危惧を抱いたのが北陸にある柴田勝家。
この人、織田家家臣団筆頭と目されていた武断派、武闘派と言われる系の人物です。
対立は激化するものの、勝家は雪で軍を起こすことができません。
そこで秀吉に使者を送って”仲良くしようね!” と持ち掛けます。
”(ははん雪で動けんわけね)ふんふん・・” と”いや”とは言わず、かといって”よし”でもない反応だった様子。
この隙に秀吉は足場固めに動きます。
たまらない勝家、軍を催し余呉湖の北側に陣を布きます。
その際、勝家本陣として設営されたのが玄蕃尾城と言われます。
もちろん秀吉も対峙しますが、膠着し動きません。
一気に動き出すきっかけとなったのが大岩山砦(秀吉側)への奇襲戦です。
地図を大きくすると見えます。
戦いの決着はウェブなどでお楽しみください。記事豊富です。著名人もたくさん登場します。
この対峙のため、余呉湖周辺は双方の軍事拠点で埋め尽くされることになったのですが、これらの城(砦)も含め長谷川博美氏が親子二代で精細な研究をされているようです。
曰く、”城とは土より成る” とか。
石垣を組んで天守閣があって・・というのはもっと後の時代の城で、戦国の山城は土の造作、石垣はあっても部分的という感じですね。
湖北は城の密集地帯、もう少し南に下れば浅井・朝倉氏との攻防の地である小谷城もあります。
さながら中国の函谷関を彷彿させる地ということですかね・・行ったことないんですが・・
戦国の山城は土に還り植生が繁茂したりとなかなか視認できづらいですが、どの城もきっと荘厳だったことでしょう。
現代も新たな山城はあります。
こちらは電子の目、耳を備えるための城です。
その近くには古代の山城、白村江くらいの時代の朝鮮式山城と言われます。
太宰府の防衛拠点として緊張感が高まっていた時代ですね。
一国一城の時代の到来まで城はまさに軍事拠点、争乱の象徴というところですか・・