徳川幕府最後の将軍慶喜というのは不思議な将軍だと思います。
名君なのか愚公なのか・・
幕末期、京阪地区に大きな緊張が走ります。
勅許を得ずに異国との修好を結んだことを発端に、幕府に反意を抱く旧水戸藩士が幕府で実権を握る井伊大老を白昼堂々と桜田門外において暗殺、その跡をまとめていた安藤老中も第二次桜田門外事件ともいうべきタイミングで坂下門外で襲撃を受け、受傷。
暗殺こそ免れたものの、二つの事件は幕府がかつての絶対権威ではないことを印象付けました。
そして兵を発する第二次長州征伐でも敗れ、武力衝突に及んでさえも与しやすしと幕府の威光はダダ下がりです。
それでも政治向きは慶喜に手玉に取られるということがあり、倒幕主流である薩摩はなんとか戦争に持ち込み徳川の影響力を排除したいと躍起です。(江戸城御金蔵ももちろん意中にある、というかメイン・・)
具体的には浪人を使った暴行や放火を頻発させます。
たまらず幕府も薩摩征伐を企図します。”あくまでも徳川と薩摩の私闘である”・・との前提です。
そこで最初の方に書いた京阪地区の大きな緊張です。
薩摩が京に向け進軍します。これも挑発です。
幕府軍が薩摩軍に向け発砲した、となりますが確証はないようです。
ともかく戦闘が始まってしまいました。
幕府軍は押されながらも必ずしも劣勢一辺倒ということではなかったようです。幕府軍には会津藩や*新撰組も含みます。
*新撰組は撰、選が併用されるようです。自称は押印から選であり、こちらが公称化されているようです。
しかし、薩摩軍に「錦の御旗」が掲げられます。
大阪城詰めしていた慶喜は表向き”よっしゃ~! 徹底的にやったるど~” と督励しますが、その夜にはこそこそと船で江戸に逃げてしまいます。”賊軍になってまうど~”
大将を失った軍に戦意を求めるのは・・(;´д`)トホホ 状態です。
これで戦況は決しました。のちに鳥羽伏見の戦いと呼ばれます
ただ、鳥羽伏見は大きな戦いですが、国を分けたさらに大きな争乱になるのは防げたことでしょう。
この後も旧幕側は戦乱の現出を避けようとしますが、時流が許しません。
鳥羽伏見が導火線なら爆弾そのものという戊辰戦争に向いてしまいます。
敗軍の将である慶喜は静岡で30年ほどの謹慎生活を送りますが、赦されてここ巣鴨の地に移り住んだとあります。
ただ、ここも長くは住みません。退去理由は山手線が通ることになり、その騒音を嫌ったと・・
背景の白いビルの手前の低い方のビルが巣鴨駅舎、確かに近くではあるけれど・・・
”予の隣に迷惑なもん作ることにしよって( `ー´)ノ・・予もなめられてしまったもんよの~( ノД`)シクシク…” かな?