おや! 5月の連休に撮っていた写真がありました。
新築オープンなった尼崎城ですね。
尼崎城ははっきり存在の確認される実在の城です。明治まで存続していました。その写真も展示していました。
明治と言えば旧来の文化破壊の時期、文化面もさることながら、まだ治まらない内政上、軍事拠点化される城は、不要であれば優先的に破壊する必要があったことでしょう。
なくなった城を地元篤志家(旧ミドリ電化会長さんですかね)が復元、完成後に市に寄付するということで市の施設としてオープンできたようです。
味が出てくるのはもう少し時間が過ぎてからですかね。
さて、尼崎城と言えば、建物位置は少々ずれるようですが、復元地にあった城です。
そしてそれは信長の毛利攻めに際して荒木村重が逃げ込んだ城と同じか? そちらは古城とか言われ、現在の城とほど近い大物(だいもつ)にあったようです。
そして大物には「大物崩れ」と呼ばれる、歴史的大敗の現場があります。
どういう位置関係で碑が建てられたのか知りません。
この付近で味方と思われた軍に裏切られ、川を敗戦側の死体で埋めるような一方的な大敗がありました。
将は甕をかぶって隠れているところを、まくわうりにつられた子供に発見されて捕らわれ者、自害に追いやられます。
また、何とか生をつないだ敗残兵も撤退路に配された伏兵によりことごとく討たれる文字通りの“くずれ”です。
この自害に追いやられた将が細川高国、細川京兆家(管領家である細川宗家)への養子で実質的に最後の管領と言われる人物です。
これらの事件からも旧来の権威はその勢いを失い、世はさらに乱れていきます。
事件はどんな背景、どんなものだったんでしょうか?
少しまとめてみました。どこまで正確かわかりませんが、大きくははずしてないと思います。
室町時代は為政者で言えば足利時代ですね。
政権樹立時は、初代将軍尊氏が政権のトップ、弟直義が行政・訴訟等実務担当という二頭政治だったということでよさそうです。
しばらくすると将軍私的側近である「執事」高師直と公的実務担当直義が反目するようになり、武力衝突にまで発展しました(観応の擾乱)。
この混乱の結果として、直義失脚、一時は執事を廃し将軍親裁色を強めたものの、2代義詮の早逝、幼き3代義満の将軍就任により執事をさらに強化したような役職「管領」が作られました。
管領は政権ナンバー2、実質トップだったりした時代もある一方、形骸化していた時代もあるようです。
その一つ、時の管領細川政元に実子がなく、後継を指名しないまま死去するという混乱(暗殺)が現出します。
養子が三名、お約束のように荒れます。勝利者は細川高国で将軍を追放して別の将軍を擁立したうえで管領に就きました。なかなか強力な管領の出現です。
しかし、室町時代の権威というのは安定しません。元来寄り合い所帯的な政権運営となっていたため、こっちが引っ込めばあっちが出てくるといった繰り返しが起こります。
讒言を受け、自身がした謀殺をきっかけに起こった反乱で京への侵攻を抑えるため桂川原で防戦を行いますが、突破され京の支配を追われます。
高国政権の崩壊です。この後も勢力争いが繰り返される中で勢力伸長を画策する播磨守護代浦上村宗と利害一致、結託して高国側が京を奪回、勢いに乗って対抗勢力である堺公方への攻撃を企図します。
ただし、管領の権威も墜ちており、糾合に応じる者もなく対抗勢力に先制攻撃を受けて膠着(中嶋の戦い)、そんなとき呼びかけに応じた赤松政佑が参陣します。
さぞやうれしいことだったでしょう。着陣の拠点とした西宮宝塚の山麓神呪寺(かんのうじ)に村宗と二人して挨拶に出向いています。
いざ戦闘が開始されると赤松勢の攻撃の矛先は、加勢に喜ぶ高国・村宗勢でした。ここに至り後背を衝かれた高国側は酸鼻を極める前述の大敗北となりました。
実は赤松政佑は村宗の主家筋、主家を蹂躙し、父赤松義村を暗殺した村宗に対し怨讐の念を抱いており、父の仇をとることを虎視眈々と狙っていました。
人質を堺公方に入れた上での確信的裏切りだったのです。せっかく”よろしく・・”と挨拶にも出向いた高国さんだったのに・・
また、高国は紺屋の伏せた甕の下に隠れていたところを、“(高国を)見つけたらこのまくわうりを全部あげよう”とつられた子供が見つけたことになっているそうですが、真相かは不明だそうです。
いかに敗将と言えど、権勢を奮った実力者が味方からの密告で捕縛というのは忍びない、ということでの作文ではないかと疑います。
事実として政元暗殺に始まる細川家身内争いである「永正の錯乱」は高国の死により終息することになりますが、この後勝った側の細川家も安泰ではありませんでした。
最近あまり聞かなくなった青果物まくわうりの盛期は、今頃? 高国自害は6月8日とありますが、今の暦にしていつかは知りません。
享年48歳は、後に信長が “人間50年、下天の・・” と舞うところからして、戦国の武人の一生としてそこそこだったんですかね・・・?
「尼崎城跡」が復元城郭の場所、「大物くずれ戦跡碑」付近が古城跡で大物崩れの現地
ウィキペディアから拝借した画像です。
”記事書くくらいなら自分で撮りに行けよ〜!” 私もそう思うんですが、車だと実に行きにくい場所にあります。
駐車スペースがなく、言わば交番の敷地内といった場所にあります。
他に古城の遺構なども何もありません。
この小さめの遺蹟の伝えるものは思いの外大きいと感じます。