お寺ふぁん・続々

写真撮ってきたから見て〜♪ 程度の記事書いてます!

太陰暦 太陽暦 旧暦と新暦の換算

2020-03-25 | 日記

 旧暦・和暦の換算サイトを見つけたので太陰暦太陽暦、同じくおさん茂兵衛に続きしつこく暦の差の話題です。

 そのサイトです。

 

 このサイトで見ると日本の暦が現行暦に変わったのは明治6年1月1日。

 つまりそこで改暦が実施されたということですね。

 その前の明治5年を見てみます。

   明治5年1月 29日

       2月 30日

       3月 29日

       4月 30日

       5月 30日

       6月 29日

       7月 30日

       8月 30日

       9月 29日

       10月30日

       11月29日

       12月 2日  計327日

 こうやって旧暦12月3日にあたる日が、まるで”11月の次に正月が来た!”って感覚で明治6年1月1日としてスタートしたんですね。

 

 旧暦というのは極めて難解、見ようによっては面妖とも・・

 各月の日数が固定ではない、つまり”にしむくさむらい”無効だし、調整のための閏月も同じ月を同じ日数繰り返すわけではないようです。

 一方が大(30日)、他方が小(29日)だってあります。何月が閏かも固定ではありません。

 赤穂浪士の討ち入りが真夏の暑い盛りとかそこまでのずれはないんだけど、初春が梅も咲かない時期だったり、桶狭間の戦い(永禄3年5月19日)では突然の大雨が勝敗の重要要素になったとかいうけど、現代暦の6月12日だから降ってもまったく違和感のない時期だったりするのも納得します。

「騎馬武者 イラスト」の画像検索結果

 若き騎馬武者、いざ桶狭間!

 

 

 この複雑な旧暦だと季節感さえ湧かないし、何より利権が生じてしまうわな~と思います。

 旧暦同士の改暦だって相当の大事件だったでしょう。改暦なかりせば、もっと言えば平易な暦への改正であれば、おさん達も公権力により命まで奪われることもなかったろうな・・

 現代は簡素な暦で良かった。・・と言っても洋暦も単一ではなく、やはり洋暦同士の換算が必要な場合もあります。

 その主なものはグレゴリオ暦とユリウス暦でしょう。

 総日数同じでも政治的意図が働いたりすると簡単な暦なんか無~理となりそうですね。

 も~暦同士の換算って頭痛~ってところ、さらにともに固定でないものを換算する場合もあるって実に難儀な話です。

 

 因みに3月25日(グレゴリオ暦)の事件としては、大塩平八郎の乱の勃発があり、それは天保8年2月19日のことだったらしいです。

 乱は内部からの密告により失敗に終わるんですが、余波として各地で小さな蜂起が発生、やがて倒幕を誘発する契機となっていきます。

 その痕跡と言われる場所も近隣にあるんですが、よくわかりません。幕府も鎮圧に必死だったんだな・・ということだけは感じます。

 

 もう一つ、趣旨はすれ違いますが、前日が東京五輪延期決定の日として長らく記録されることになるのか、どうなのか・・・

「五輪 イラスト 無料」の画像検索結果

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西ノ京 薬師寺 国宝東塔落慶

2020-03-22 | 日記

 薬師寺東塔の大修理が終えたようです。

 薬師寺は天武天皇(以下、天皇→帝)の后の病気平癒を祈願して建てられたと言います。

 

 天武帝は即位前大海人皇子と呼ばれていました。乙巳の変(大化の改新)の当事者天智帝(=中大兄皇子)の弟とされます。

 天智帝はいよいよ篤くなった際、大海人皇子を呼び後事を託そうとしたものの辞去して隠棲、天智帝の子大友皇子が跡を継ぎます(弘文天皇)。

 しかし、天智帝が崩御すると子と伯父が皇位を争う壬申の乱が勃発、勝利した大海人皇子が即位という経緯です。

 

 天智帝の弟とされる天武帝の方が年上という説もあり、背景が古代最大のミステリーとも言われる壬申の乱。

 当時の皇統周辺には悲劇を伴う人物が名を列する。白村江の争いも天智帝の御代であり、外政も不安定。

 財政極まらない中、后の病気平癒の願は勿論のことだろうけど、それだけにとどまるものではないと巷間言われることをこの伽藍を前に実感します。

 

 ご本尊は薬壺を携えた薬師如来、体の薬、社会の薬への期待、望みでしょうね。

 折も折り、ぜひこのウイルスへも・・・

 (落慶法要はコロナの影響で延期、未定となっています。)

 

 青空の似合う季節だと思いますが、前線が近づいてきてるとか・・・

 

 さざなみ立っていて水面への映り込みはほとんどありません。相輪が辛うじて映っているという程度です・・

 

 もうかなり陽は高いです。

 地元のワンコ散歩のおじちゃんにニヤリとされます。”ここ撮るんだったらもっと早く来なくちゃ!” ・・日の出前らしいです。

 

 2010年の秋に撮った画です。リコーのコンデジcx3で撮りました。

 キンキラの再建西塔は落ち着いています。この後東塔は修理に入りました。

 ほぼ同じ画面の現在(本日)。塔の前に見える高架電柱は近鉄電車の橿原線です。すぐ左に薬師寺駅とも言うべき西ノ京駅があります。

 

 ・・お見合いかも・・

 

 駐車場に向かう途上、天満神社に寄ります。

 

 三間社流造の本殿も石の神牛も古いです。

 

 古都奈良は道が狭いです。この辺の路地としてはこれでも広い方か・・

 

 

 桜はまだです。

 

 リフォーム、特に相輪は傷みが激しく複製ということですが古さを失わない素晴らしい技法です。”修理しました!”感がありません。

 ”凍れる音楽”(一応フェノロサの言葉、ただし証拠はないとか・・)と評される東塔。すばらし・・

 

 

 西塔とともに。

 

 
 
 
 
 
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西ノ京 #薬師寺 お寺には"音羽山"清水寺といった"山号"がありますが、ここにはありません。必要なしという存在でしょう。国宝東塔(#こおれる音楽 )の修理が終えたようですが、まだ仏教寺院建築になる予定がとれない、つまり法要の予定がつかないようです。 コロナの影響ですね。 桜に包まれます。ですが、まだつぼみが小さいです。 池越しに薬師寺伽藍を臨む。背景は若草山。 さざなみだってリフレクションはほとんどありません。

oo_totoro(@tell06yo)がシェアした投稿 - <time style="font-size: 14px; line-height: 17px;" datetime="2020-03-22T01:33:19+00:00">2020年 3月月21日午後6時33分PDT</time>

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春の妖精探し 播州から丹波へ回遊 達身寺 浄居寺 高源寺

2020-03-20 | 日記

 春の妖精とも呼ばれるカタクリを見に行ってみます。

 この花です。(エリスロニウム・ジャポニカム WIKIより)

 ・・ありゃ〜 こんな片田舎 ぴ〜 のどかな里へもコロナくそったれがのさばっているんです。

 

 

 予定がなくなってしまったので多可のお寺に向かってみます。

 ここには枝垂れがあります。枝垂れは早いのでひょっとしたら・・

 

 

 

 

 

 ”桜の荘厳” というところですが、まだまったくです。

 

 この一帯に「門村構居」という構造物(土木)があります。

 地方領主なり派遣地方官とか言われる杉原氏の居館跡と言われます。

 杉原氏は三木の別所氏の支族に討たれたとあります。

 いかにも規模が大きそうです。規模が大きい分近づき過ぎるとよくわかりません。植林で覆われています。

 こんな大きな城館、財政基盤はなんだったんでしょう。

 

 野梅がもう遅い花を残しています。

 

 ためだかがたくさん泳いでいます。繁殖期ですね。

 

 大きな野鯉数匹がパクパクしていたので馴れてるな〜と見ていると、私に気づいて一目散に逃げます。

 

 武士団の守護だったようです。構居の一部です。

 

 

 

 奥(北方)に進むと杉原に至ります。かつての上質和紙の産地です。

 三椏が花を付けています。

 

 頃合いです。お昼にします。

 

 この鶏は歯にも舌にも食欲をそそるなかなかの肉質ですね。播州百日鶏

 

 

 あ〜この道だったのか・・と高源寺に寄ります。天目カエデで紅葉の名所です。

 前回来たのはもう”昔昔・・”という頃です。

 

 

 里が春の目覚めを迎えます。

 

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太陰暦 太陽暦 大経師昔暦(2) おさん茂兵衛

2020-03-19 | 日記

 (1)の続きから・・

 改暦にかかわる事件。色恋沙汰?

 

 メイドカフェならぬ冥土の使者(ごめんなさい😅)、石川さゆりが歌ってました“夢の浮橋”。

 ほんとこの人は情念を歌わせたらすごいですね~ と置いといて・・

 登場するおさんは大経師の妻(19歳)、相手は手代で密夫茂兵衛。

 下女おたまの肝煎(よくわかりませんがそう記録されています)で男女の仲となり発覚を恐れ逃亡、捕われの身となり不義密通の罪で市中引き回しの上磔、同じくおたまも獄門。

 

 なんでくっついたの・・?

 この辺の事情は、後の世に脚色されていて諸説ありわからない(何分にもお世話好きです(^▽^)、お芝居では世話物に分類されます。ちょい意味違うけど・・)。

 もちろん記録もない。あるのは3人が処刑されたという事実。

 極刑であるが、法の上では妥当らしい。不義密通は身体刑を伴う重罪なのだ。

 しかし、運用上この罪は本夫にゆだねられるところがあり、お上は介入しないのが普通らしい。

 さらには“町人風情なぞワンコ、ニャンコに変わらない、よそのワン、ニャンにちょっかいかけたとしてもお上は知らん。ちゃんとしつけろ。“ 的な扱いらしい。

 ・・関西人らしく言えば ”知らんけど〜・・“

13

 

 ところで獄門とは? 公開で首を刎ね、台の上にその首を晒される刑である。獄舎の門前に晒したのが名の由来らしい。

 生きて晒され(市中引き回し)、死しても晒され、胴は試し斬り用として武家に引き渡される。弔い、埋葬は認められない。みせしめとは言え・・

 そして磔は、さらに数段凄惨な刑である。むごい・・いくら罪人と言えど人として許されるのか・・という・・実に禍々しい・・

 

 現代で言えば記者会見一発で済ませるようなこと、あくまで民事、切りつけたとかがなければ公が介入してくることはない。

 それをなぜ、そんなむごい刑に・・・  「大経師」ということが関わっているらしいような・・

 大経師は、表具師といった職業、客先は御所。そんなんで江戸城将軍様関係も出入りする。

 それが暦の版元、販売権をも独占的に持っていた。これだけで、ただの町人ではなくみなし公務員のような家格だろう。

 ただ独占的とは言え、実際上当時地方暦等も通用しており様式も若干異なっていた模様。

 

 そんな中、京都所司代の、“(暦の体裁)揃えられんのか?”との問いかけを大経師は “一手に引き受けろ!” と“都合よく”聞き違いして版権、販売を本当に独占しようとする動きに出た。

 江戸表にも働きかける。これが所司代の勘気を誘った。そこに密通事件。結果としてルール破りの不届き千万、加えて数々の不行跡、これにより改易となった。

 不行跡には密通が含まれる(むしろメイン)ことは明らかだろう。

 するとこの結果を得るために重き罪状を問い、世に広く伝わるような苛烈な刑罰を加える必要がある。

 もう一つ言えば、裏にはそうなることを望み、進める者があっただろうという推測がある。

 そういう背景を思い浮かべてこの曲を聴くと、実に切なくもそらおそろしい。

 

 

 

 

 この事件は単なる色恋沙汰ではなく、現代の法学論集に取り上げられるような時代を描写した大きな事件だった。

 陰陽の世界までも映しこむ太陰暦というのは怖い暦なのかも・・太陽暦でよかった・・ 

 

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太陰暦 太陽暦 大経師昔暦(1)

2020-03-17 | 日記

 え~と ひな祭りいつだっけ・・の続き。

 我が家の雛様たちも押し入れの住人に戻られた。

 

 
 
 
 
 
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我が家の #三人官女 はいつも飾られることもなく、日向ぼっこだけして再び"箱入り娘"です。切ない😪 #雛飾り

oo_totoro(@tell06yo)がシェアした投稿 - <time style="font-size: 14px; line-height: 17px;" datetime="2020-03-15T01:15:42+00:00">2020年 3月月14日午後6時15分PDT</time>

 

 桃の節句というけど、現在暦の3月3日って鑑賞、そう、この行事用以外の桃の花って咲いてる・・?

 往古からの行事に際しては旧暦の方が合ってるんだよね。

 ではなぜ?

 答は意外と簡単 “合わせてるから”

 

 地球上の時間というのはただぼーっと単純に流れているのではなく、周期を持って循環している、それを見つけたのが暦ということでいいのかな。

 いろいろな暦(暦法)がある。

 日本での旧暦と言ったら太陰太陽暦。月の運行を基本とし、太陽の動きつまり季節を調整する暦。

 月の満ち欠けは29+α日、αは0.5でよかったと思う。

 するとひと月29日では足りないし、30日では余る。

 1年は春分から春分までで365日と旧暦でも前提となっている。

 結果、大(30日)の月、小(29日)の月で調整しようとしても、どうしても調整しきれない日数が出て来るし、季節感のずれがでてしまう。

 だからどうしたかと言うと・・・あ~あった、このサイトのように閏月を入れて調整したんだよね。めでたしめでたし!・・とはならない。

 日数だけではなく、その他複雑な調整要素がある。

 明治期に、”そんな複雑な調整しながら使っていく意味があるのか、今後日本もグローバルになっていくんだぞ・・”という論が出る。

 

 サイトにも少し出てくるけど、ことはそんなに単純ではなさそう。

 明治政府というのは現在でいうレバレッジドリース、江戸幕府の御金蔵を宛にして作ろうとしている。

 ところが、御金蔵を開けてみて超ビックリ、金銀財宝がうなっているという算段だったのになんと空っぽ! 

 ここから徳川埋蔵金探しが当時も、また現代までも延々と続くことになる。もちろんお宝は出ない。

 

 明治は初っ端から行き詰まり、緊縮財政の必要が出る。討幕支持を得るため税金下げると今でいうマニュフェストも出してたんだけど、財源がない。

 宣伝マンとして使っていた「赤報隊」(千葉小金宿東漸寺に出身隊士の碑がある。)は、お上を騙って妄言をなし民を惑わす不逞の輩として詮議もなく処刑した。

 詮議したら真犯人わかるから絶対しないけどね・・ そして重大なこと、旧暦だと13個の月がある年がある。

 すると公務員の給料は月給にしていたから13回払いの年が出てしまう・・う~由々しき・・

 と、これが最大の理由だろうけど、明治に日本の暦もかなりバタバタと太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったんだよね。あくまでもグローバル対応だよ・・へへ(^^)/

 

 暦って太陽暦と太陰暦? 大きくはそうなんだろうけど、特に太陰暦には暦に取り入れる要素が多いため細かい違いの暦がある。

 太陰暦同士の改暦であっても古くからのものが旧暦、切り替えるものが新暦という。特に悩まない、当然ね。

 改暦というのには利権、権勢も絡み相当の闇ドロドロが付きまとうのかもしれない。(つづく)

 

 

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