季節は進んだといってもまだ深い紅葉にはなっていません。
調布にある関東でも有数の国宝寺院深大寺を訪ねてみます。
水がいいんです。だからそば・・
山門、古いものです。
ふんふんなるほど・・さっぱりわからん・・・
お寺さんも七五三参りあるんですね。
さてと・・ お寺を見に来たのは事実です。
しかし、本当のところは ”ついで” 今回どうしても見たかったのは深大寺城です。
墓地が急傾斜に造ってあります。
武蔵野の舌状台地(文字通り舌のように延びた台地地形です)の縁を使ったことによるものですね。
住宅土台のこの傾きが台地の傾きを教えます。
それとこの峠状の山越え。この台地上にあった城です。
もちろん舌状台地の縁の急傾斜を防備に使用しています。
この城は多摩川を挟んで川崎側をにらんでいます。
北条氏が江戸城を奪取したことから河越(現在の川越)にあった扇谷上杉氏が対峙上、相当に手を入れたようです。
台地は降った雨を一旦地下に蓄え、この地で湧き出します。
泥濘地です。これを城の堀とします。これは踏み込めません。
また、城の本体は台地上にあり、備中高松城のように水没することもありません。
堅固で強力な拠点です。
後世の石垣の城ではなく、土の城です。
攻め込まれたらやはりしんどいことになります。文字通り”最後の砦”ですね。
落とされないために様々な仕掛けがあります。
しかし、私にはそこまでわかりません。
広い第二廓です。第三廓まであったようですが、第三廓は失われています。
規模も大きく重要な防衛拠点だったことがわかります。
残念なのは多摩川の対岸を睨んでいるんですが、それが見渡せるところがないようです。
この堅固な城、実際はどうだったんでしょう・・
経緯まで含めて知ったかを書いてみましょう。
関東は言わば東の将軍とも言うべき鎌倉公方が治め、政治・軍事の枢要は秘書にあたる関東管領が持つようになりました。管領は牽制の意味合いなんでしょう、公方の家来筋ですが任命権者は京都の幕府にあります。
関東管領に就いていたのは上杉氏、本貫(≒出身地)は京都綾部で鎌倉時代、宮将軍の初代の時に随行して関東に下ってきたようです。
藤原氏の支流になりますが、関東において武家化しました。
その上杉氏は着々と勢力を強めていき繁栄に従って公方との対立、身内の争いなどがあり家勢は衰退気味、武蔵を支配していたのは分家筋の扇谷上杉氏、河越拠点から江戸城に出てきていました。
トップとなる公方、その秘書関東管領、伸長した関東管領の分家・・これらが相争う混乱がありました。
その混乱を突いて北条氏の侵攻です。北条氏は鎌倉執権の北条氏と区別するため後北条氏とも呼ばれます。別系統です。
上杉氏の家宰太田道灌の造った堅城である江戸城に迫ります。
絶大な勢力を誇った上杉氏(扇谷)を相模から追い出した上でのことです。
上杉氏も”何をこの、来るなら来てみ~” の勢いだったと思いますが、意外や北条軍が接近すると勝手に城門が開いてしまいます。北条氏が内応者を調略していたのです。
戦意を失った上杉氏は戦うことなく河越に撤退します。おそらく泣きながらでしょう。
次は河越を狙うのは見え見えです。
そのための備え、つまり”江戸城から河越を狙うなら横っ腹に蹴り入れたる、来なさい! もちろん多摩川越えだって睨むよ!”、だった深大寺城ですが、北条氏は深大寺城には目もくれず猛スピードで河越を攻め落としました。
一種の賭けです。もし手こずれば河越と深大寺の兵の挟撃に合う危険があります。
しかし、鮮やかに攻略です。
このため深大寺城はまったく機能することなく一夜にして無用の城となりました。
何が幸いか・・ 上杉氏が北方に大きく去り、北条氏にとっては自分の支配地の内部奥になったことにより維持する必要がありません。自然に廃城となります。そのため北条の手の付かない遺構としてよく残りました(北条氏の築城術はかなり独特です。)。
因みに上杉もこのままというわけには行きません。
共通の敵の出現により対立していた公方様、本家筋(山内上杉、管領家)とも再度手を結び、連合軍として大挙して奪回のため河越を囲みます。
攻囲長期となり、最早陥ちたも同然という気配でしょうか、”どや、本腰入れたらこんなもんや!”という油断?
その寸隙を衝いてか北条氏が小田原からの援軍と城兵の出撃による挟撃で公方・上杉勢を散々に蹴散らしました(実は駿河の今川氏や甲斐の武田氏の圧迫により援軍出すに出せなかったんです(*´Д`))。
これにより関東の情勢は北条氏が覇権を握ることが確定的となります。
上杉は扇谷が滅亡、山内も関東管領を維持することが困難で家来筋、縁戚である越後の長尾景虎を頼り、職を譲ります・・最早アンシャンレジームそのもので誰も欲しがらない役職ではありましたが・・・関東管領上杉謙信の誕生です。
この戦闘が河越夜戦と呼ばれることとなり、日本三大夜戦の一つに挙げられます。
ただ、戦闘があったことは事実のようですが、言われるほどの規模だったかは不明のようです。
城跡を一瞥しました。最初に見た湿地に戻ります。神代植物園の別園で水性植物園となっていますが、先に書いたように城の防衛施設に使われていました。
深大寺からすぐそこの城なのにたどり着くのに徒労を重ねてしまいました。ふ~
現在は堀や土塁というより、”私有地”というのが最も強力な防衛設備ですね。
そば屋の並ぶ通りで名物のそばを食べて帰りましょう。