お寺ふぁん・続々

写真撮ってきたから見て〜♪ 程度の記事書いてます!

小金宿 本土寺から根木内城を経て東漸寺 骨董市

2020-11-28 | 日記

 常磐線北小金から本土寺に向かい、帰路駅を通り越して東漸寺に立ち寄る。

 このコースをこれまで何度も歩いた。

 

 

 最初に訪れたとき、その美しさに心打たれた。

 しかし、どうもその後いい時季に出会わない。

 今回も期待持てなそうなので入山せずに他の場所に向かう。本土寺はあじさい寺としても名高い。残念。

 

 

 

 空は青い!

 

 その昔、この辺も穏やかでない時代があった。

 室町期、鎌倉公方と関東管領が対立、鎌倉公方は鎌倉を追われ古河に入り古河公方を名乗る。

 そんな背景でどちらの勢力からも味方を求められた地、領主は国人の千葉氏系原氏か高城氏というところ。

 その居城根木内城址に立ち寄る。

 水戸街道(国道6号)沿いのこのこんもりがそうかな?

 

 公園内の掲示。

 国道6号が城址を分断し、北側は宅地化されて城址が消失したのが克明にわかる。

 ま~当時は田舎侍の城跡なんぞどうでもいい時代だったろうしね・・

 

 空堀、土塁が素人でもわかるようにきれいに残っている。

 

 こちらは土橋。

 

 こちらが主郭なんだろうか? 結構な広さがある。

 何が不足だったんだろう? この城は小金城に移る。そして小金城は北条式の城に変わる。

 風当たりも強くないんだろうね、葉が多く残っている。

 

 それとも一つの掲示。

 弱くはなっている。だけどまだ”昔”ではない。

 相当量降り注いだんだろうな・・

 

 ここを出てもう一か所寄りましょう。

 いくらマスクありでも人が大きく映りすぎか~(*´Д`)

 

 

 

 

 

 

 

 この松の枝ぶりは立派だと思う。

 

 そして青空。

 

 この”こんもり”は電車からも見える。

 

 

 境内で定期の骨董市、結構な出店がある。

 落ち葉をきれいに敷き詰めたのかな?

 そんなのはしないな~ 今日はかなり風があるので吹き散らして勝手に商品を埋めたんだろうと思う。

 

 

 駅に向かいます。

 小金は水戸街道の宿場町、それとマツモトキヨシの発祥の地です。

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金鳳山平林寺 新座 野火止

2020-11-15 | 日記

 平林寺は広大な境内林を持つ名刹です。

 もともと岩槻にあったものを江戸初期にここに移したということですが、それくらいの古さは古いのかそうでもないのかはわかりません。

 何度か訪れていますが、今年の訪問は紅葉には1週かそれ以上早いと思います。

 しかし、承知の上なんで平気のへいりんじです。(予想裏切ってくれてもよかったんだけどな~(*´Д`))

 

 

 

 これもコロナなんでしょうか? 公開されている地域がせばまっているようです。

 

 花頭窓・・お寺ですね。

 

 どういう色づきなんでしょうか? 赤みがなく黄色に染まります。

 

 餌ではありません。水の湧き出しがあってそこに群れているんです。

 

 なにか”生命”を感じます。

 

 現在は広いといってもそこまでのことはなく、道も整備されていますが、この林がどこまでも・・といった感じだと”お菓子の家”まで行きついてしまいそうです。

 この辺はかなりの範囲でこういう風になっていたんでしょう。

 

 業平塚です。みやこどりの御仁はこの地にも踏み入れていたんですね。

 歌碑もあったようですが、そちらは失われているようです。

 

 来るときに横を歩いたにんじん畑が見えます。寺域は相当に広いです。

 

 

 

 

 この岩の写真を数年前ウオーカープラスだかの”今週の一枚”みたいなのに載せてもらいました。

 しっとりした日でした。

 

 目はよし! 次、腹!

 赤いうどんです。

 新座は埼玉、埼玉はなかなかのうどん県です。

 それに地元名産ですか、にんじんを練りこんでいます。

 

 今日は一番乗りでした。だれもいません。

 ではゆったりと思ったら、次々にお客です。

 勘定書持って来られてしまいました。食ったらはよ出てけ・・でしょうね・・わかりましたよ!

 

 滞ることなく流れます。武蔵野高燥台地で農耕を可能にした歴史ある疎水です。

 

 ゆる~い看板増えてますね(^^

 ”互いの信頼” 残念ながら危うい一面が出て来ていますね。

 商品はよく売れたようです。近けりゃ最後のネギ買いたいけど・・

 

 その前の用水沿い、そうか”サワラ”という材はこの木か・・ 他の木と思いっきり仲良し(^^♪

 

 用水はチェーンの外、その向こうは境内林になります。 ひっろ!

 

 大人・・それもだいぶおとなのSL同好会があるようです。

 いいな~ 女のこはすぐ声かけてもらってポッポ~してもらって乗っけてもらって・・

 べつに乗りたくなんかないからいいもんね・・ふ~んだ・・

 ・・やっぱりエンジニアはいいな。

 

 境内林から見えた畑でしょう?

 野火止用水がなければこの光景はなかったんです。

 

 前来た時にも行列だったんですよね。なかなか長寿の人気店でしょう。

 何屋さんかと思ったらラーメン屋さんです。もう食べないですけど・・興味はあるかも・・

 

新座散歩 金鳳山平林寺

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六義園 withコロナ 紅葉

2020-11-14 | 日記

 六義園も紅葉期に入りました。

 

 

 

 withコロナなんていうと”ま~コロナちゃん、こんなところまで・・” って感じですが、

 ・・”冗談じゃない、どこ来てやがんだぶっつ殺されたいか!” って気分ですね。(”ごめんね”と言っておかないと逆にぶっ殺されそうですが・・)

 くどいながら、おのれコロナです。(紅葉期、コロナ対策で入場も事前予約が必要です。)

 

 

 

 

 おめでたい梅の花の模様(^^♪

 しかし、虫にとっては必死の仕掛けです。あったかいからと菰の中に入ると、春先あったかくなる前に菰ごと焼き払われます。ころちゃんにもこういう仕掛けがあればいいのに・・・

 

 今年はカモが多いとか。脂が乗って・・🤤 いかんいかん・・

 

 

 

 高い枝です。実でしょうか、花でしょうか? 赤いのが付いています。

 

 ・・目の保養にはなりますが、おなかの保養もいりますね・・(*´Д`)

 

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甲斐路 秋 岩殿山 三毛猫 クラインフェルター症候群

2020-11-08 | 日記

甲斐路 秋 岩殿山 三毛猫

 

 秋の甲斐路を訪ねてみます。

 電車で高尾を越えるのは、ほとんど初めてくらいの久々です。

 大月に降りて橋を渡ってすぐに登山口です。この深い峡谷はいずれ相模川となる川です。

 

 このどでかい岩盤、山頂に城を築いていたとあります。渓谷はすぐ下です。

 

 ふ~ふ~ぜーぜー言いながら登ってきました。

 なんてでかい岩だ。よくもこんな上に城を・・

 

 山頂から富士が望みたかったんですが・・ ま~見えたり、隠れたりです。

 

 中央道が眼下です。

 

 きれいな虫がひっくり返っています。

 秋の虫です。動きがよくないんです。起こしてやります。

 ちゃんといいことありますように・・って、こんな見返りを求めるような心というのがけしからんのですね・・反省しま~す!

 

 一旦下って、別ルートに行ってみます。途中まで行けるとなっています。

 ん・・ これはこたえますね~ ぜーぜー

 くねくねどこまでも続く感じです。

 やっと鞍部に出ました。もうそこでしょう・・

 そして悲しき標識。「七社権現」までです。「岩殿山」はここで通行止めです。

 

 こんな洞窟でした。

 メランジュ様の地質です。これってもろいんじゃなかったかな~

 

 眺望はききませんし、岩殿山も見えません。・・くたびれもうけ・・

 

  ご案内ありがとうございます。謙虚にお礼。

 

 その背後、切り立った崖です。この尾根道はひょっとして登城路でしょうか・・?

 

 するとこれなんかも腰廓じゃ・・? なんて思ってしまいます。

 腰廓というのは傾斜をきつくしたり、通路を狭くするための構造です。普通にきついのに・・

 

 

 登りでは気付かなかったこんなものも見ます。

 さわると”ぷす~っ”と胞子が飛び出すキノコじゃなかったですかね・・

 

 

 ふ~ふ~で降りて来てお寺さんに立ち寄ります。

 こういうことがあったんですね。どうしても平和でないと・・

補陀山全福寺(曹洞宗)

 背景が岩殿山です。

 

 お寺を出ると非常にフレンドリーなボクがあいさつしてくれました。

 名前くらい聞けばよかったです。

 人を見れば泥棒か誘拐犯だと思えというご時世にほっこりです。

 

 このあたりで瓦を焼いているんですね。へ~!です。

 

 

 観光案内で鎖場があるといっていました。この辺がそうかも・・

 

 駅のほど近く、にゃ~と呼びかけると、”だれにゃん”という表情です。

 ”その部分”を見てみたいんですが・・見せてくれにゃいよね。

 三毛となる発色遺伝子は性染色体であるx染色体に乗っているためxxつまり雌にしか三毛は出ないのです。

 しかし、遺伝子異常でxxy遺伝子を持っていると雄の外見で三毛が出ます。

 この場合の雄は生殖能力のない疑似雄だそうです。

 ではすべてそうかというと他の要因で生殖能力を持つ雄三毛も出ることがあるそうです。

 この染色体異常の病的な状態をクラインフェルター症候群というそうです。

 そしてこれはねこだけの病気ではなく人にもあるとか・・

 

 遺伝子の世界も非常に不思議です。

 xxyがあるのならxyyというのはないんでしょうか。

 xxが♀、xyが♂ ではyyというのは・・xy(♂)同士の掛け合わせでしかできないので普通に考えるとあり得ないことなんでしょうが、遺伝子組み換えとかなんとかいう時代ですから・・((+_+))

 

 つまらんこと言ってないでめし食って帰りましょう。

 山梨だからほうとうね。

 

 

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国寶 古刹浮岳山深大寺 深大寺城 深大寺そば

2020-11-04 | 日記

 季節は進んだといってもまだ深い紅葉にはなっていません。

 調布にある関東でも有数の国宝寺院深大寺を訪ねてみます。

 

 水がいいんです。だからそば・・

 

 

 

 

 山門、古いものです。

 ふんふんなるほど・・さっぱりわからん・・・

 

 お寺さんも七五三参りあるんですね。

 

 

 さてと・・ お寺を見に来たのは事実です。

 しかし、本当のところは ”ついで” 今回どうしても見たかったのは深大寺城です。

 墓地が急傾斜に造ってあります。

 武蔵野の舌状台地(文字通り舌のように延びた台地地形です)の縁を使ったことによるものですね。

 

 住宅土台のこの傾きが台地の傾きを教えます。

 

 それとこの峠状の山越え。この台地上にあった城です。

 もちろん舌状台地の縁の急傾斜を防備に使用しています。

 

 

 この城は多摩川を挟んで川崎側をにらんでいます。

 北条氏が江戸城を奪取したことから河越(現在の川越)にあった扇谷上杉氏が対峙上、相当に手を入れたようです。

 台地は降った雨を一旦地下に蓄え、この地で湧き出します。

 泥濘地です。これを城の堀とします。これは踏み込めません。

 また、城の本体は台地上にあり、備中高松城のように水没することもありません。

 

 堅固で強力な拠点です。

 

 

 

 

 

 後世の石垣の城ではなく、土の城です。

 攻め込まれたらやはりしんどいことになります。文字通り”最後の砦”ですね。

 落とされないために様々な仕掛けがあります。

 しかし、私にはそこまでわかりません。

 広い第二廓です。第三廓まであったようですが、第三廓は失われています。

 規模も大きく重要な防衛拠点だったことがわかります。

 残念なのは多摩川の対岸を睨んでいるんですが、それが見渡せるところがないようです。

 

 この堅固な城、実際はどうだったんでしょう・・

 経緯まで含めて知ったかを書いてみましょう。

 関東は言わば東の将軍とも言うべき鎌倉公方が治め、政治・軍事の枢要は秘書にあたる関東管領が持つようになりました。管領は牽制の意味合いなんでしょう、公方の家来筋ですが任命権者は京都の幕府にあります。

 関東管領に就いていたのは上杉氏、本貫(≒出身地)は京都綾部で鎌倉時代、宮将軍の初代の時に随行して関東に下ってきたようです。

 藤原氏の支流になりますが、関東において武家化しました。

 その上杉氏は着々と勢力を強めていき繁栄に従って公方との対立、身内の争いなどがあり家勢は衰退気味、武蔵を支配していたのは分家筋の扇谷上杉氏、河越拠点から江戸城に出てきていました。

 トップとなる公方、その秘書関東管領、伸長した関東管領の分家・・これらが相争う混乱がありました。

 その混乱を突いて北条氏の侵攻です。北条氏は鎌倉執権の北条氏と区別するため後北条氏とも呼ばれます。別系統です。

 上杉氏の家宰太田道灌の造った堅城である江戸城に迫ります。

 絶大な勢力を誇った上杉氏(扇谷)を相模から追い出した上でのことです。

 上杉氏も”何をこの、来るなら来てみ~” の勢いだったと思いますが、意外や北条軍が接近すると勝手に城門が開いてしまいます。北条氏が内応者を調略していたのです。

 戦意を失った上杉氏は戦うことなく河越に撤退します。おそらく泣きながらでしょう。

 次は河越を狙うのは見え見えです。

 そのための備え、つまり”江戸城から河越を狙うなら横っ腹に蹴り入れたる、来なさい! もちろん多摩川越えだって睨むよ!”、だった深大寺城ですが、北条氏は深大寺城には目もくれず猛スピードで河越を攻め落としました。

 一種の賭けです。もし手こずれば河越と深大寺の兵の挟撃に合う危険があります。

 しかし、鮮やかに攻略です。

 このため深大寺城はまったく機能することなく一夜にして無用の城となりました。

 

 何が幸いか・・ 上杉氏が北方に大きく去り、北条氏にとっては自分の支配地の内部奥になったことにより維持する必要がありません。自然に廃城となります。そのため北条の手の付かない遺構としてよく残りました(北条氏の築城術はかなり独特です。)。

 

 因みに上杉もこのままというわけには行きません。

 共通の敵の出現により対立していた公方様、本家筋(山内上杉、管領家)とも再度手を結び、連合軍として大挙して奪回のため河越を囲みます。

 攻囲長期となり、最早陥ちたも同然という気配でしょうか、”どや、本腰入れたらこんなもんや!”という油断?

 その寸隙を衝いてか北条氏が小田原からの援軍と城兵の出撃による挟撃で公方・上杉勢を散々に蹴散らしました(実は駿河の今川氏や甲斐の武田氏の圧迫により援軍出すに出せなかったんです(*´Д`))。

 これにより関東の情勢は北条氏が覇権を握ることが確定的となります。

 上杉は扇谷が滅亡、山内も関東管領を維持することが困難で家来筋、縁戚である越後の長尾景虎を頼り、職を譲ります・・最早アンシャンレジームそのもので誰も欲しがらない役職ではありましたが・・・関東管領上杉謙信の誕生です。

 この戦闘が河越夜戦と呼ばれることとなり、日本三大夜戦の一つに挙げられます。

 ただ、戦闘があったことは事実のようですが、言われるほどの規模だったかは不明のようです。

 

 

 城跡を一瞥しました。最初に見た湿地に戻ります。神代植物園の別園で水性植物園となっていますが、先に書いたように城の防衛施設に使われていました。

 

 深大寺からすぐそこの城なのにたどり着くのに徒労を重ねてしまいました。ふ~

 現在は堀や土塁というより、”私有地”というのが最も強力な防衛設備ですね。

 そば屋の並ぶ通りで名物のそばを食べて帰りましょう。

 

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