ゆだってしまうような酷暑・・
その前は長い大雨!
これって日本だけのことじゃなくて中国でもそうらしいですね。
三峡ダムがやばいなんて話もあるようです。
その場所って まんま三国志の世界・・ 三峡ダムのチョット下流が夷陵の地、さらに下ればあの赤壁があります。
(地図を「はじめての三国志」さんからお借りしています。なかなよくまとまったページです。)
「巫」「秭帰城」「信陵」はもともと黄色(呉)の領域です。蜀が深く進攻しました。
画ではわかりづらいので航空写真で見てみましょう。便利~!
左上の堰が三峡ダムですね。その右岸が秭帰でしょうか? 宜昌市に「夷陵区」の表示が見えます。
なぜ、進攻? ・・弔い合戦です。
赤壁で魏の侵攻を阻止した蜀呉は一定の勢力を得ることができました。
そして蜀は荊州の地を実効支配することに成功します。その大将が関羽。
呉にとっては荊州は蜀に奪われた地。
だから関羽は同盟関係にあるとは言え呉を警戒、有事は長江沿岸砦の烽火により急報するシステムを築きました。
しかし、呉はわずかなスキを突いて荊州に侵攻、魏と対峙している関羽の背後を襲いこれを討ちます。
首を取ったはいいもののこれでは蜀のうらみを買う・・知恵者はいるものです。魏の曹操に送ります。
”これで呉が自発的に関羽を討ったのではなく魏のさしがね・・しめしめ・・”
この見え見えが通用するわけはありません。
即刻にも呉を討ちたい・・そんな思いがあったようですが、何分にも国力が充実していません。
3年後だか3年目? 劉備直々に満を持しての出撃がこの夷陵の戦いです。
破竹の勢いで砦を抜いて行った蜀ですが、進撃が止まります。
呉の大将は陸遜。ぱっとしない将軍です。なめてかかったところもあるかもしれません。
呉の方でも”だめだこりゃ”的なところがあったとも・・
積極的に迎撃に当たらず持久戦に持ち込んだ結果の進撃阻止でしょう。
兵法に勢いのある相手に正面から当たってはならないということがあるそうです。
いなして機を待ちます。今時分だったんでしょうか。蜀の兵は暑さに疲れ陣を離れ林の中、つまり危険物の中に身を置いていました。
陸遜は蜀の陣地を一撃し、ほとんど戦果は得なかったようですが、観察に成功します。
”蜀の陣地は林に囲まれ密になっている” そこで火攻めを仕掛けます。撤退路となる上流側からです。
蜀の陣は散々に打ち破られ、劉備も急追を受けます。
急を知った趙雲が駆け付け劉備を救ったとあります。
しかし、この後病を得ます。戦いの準備段階で張飛が部下に討たれ(今でいうパワハラの結果ですかね)、戦いも再起不能レベルの負け戦となる・・心の病ですか。
諸葛孔明を呼び、”せがれが有能なら援けてやってくれ、もしそうでないなら君が後をついでくれ。馬謖は口先だけだから重要な局面では使うな・・” などと言い残して白帝城でこの世を去ります。
三国志の主要人物が入れ替わるターニングポイントとなる戦いとなりました。もう曹操さえも長くはありません。
上の写真が夷陵に近い側です。いくらか斜面があって道がついてるのかなと見えます。
下の上流側は切り立った崖です。こういう地勢で桟道が続いたりするんでしょう。劣勢には極めてつらい道です。
こういう場所を敗戦の蜀軍は生死をかけて撤退したんですね。
そして気になるちょこっと・・
三峡ダムというのは貯水面積は琵琶湖の約1.6倍、ダム流域は東京・姫路間に匹敵するそうです。
そこに貯められた水が一気に下流を押し流す・・恐ろしい光景です。
超希望的に幸い被害がなかったとしても、それだけの淡水が海洋に一気に流れ込む・・いつかは流れ込むものでしょうが、問題は”一気に”ということです。何の影響もないと考えるのは”幸せすぎる”んでしょうね。
ま~そんなことはないと思うんですが、かの国は工事費の相当な部分が個人の懐に”着工”されてしまうという噂があったりしますんで・・・こえ~
もひとつ、さらに下流の武漢、コロナ武漢タイプは日本では終息したようです。今流行っているのはヨーロッパタイプの派生型と・・なんとか終わってもらわないと夷陵の戦いが”医療の戦い”になってしまいます。・・手洗、消毒、ほんと疲れるな~(;´д`)トホホ