気温低くさむさむ~です。
今年も最終盤ですね。
商店街で注連縄など正月用品の販売準備をしていました。
明日見に行ってみますかね~ ぜひ来福除災を祈って・・(*´Д`)
気温低くさむさむ~です。
今年も最終盤ですね。
商店街で注連縄など正月用品の販売準備をしていました。
明日見に行ってみますかね~ ぜひ来福除災を祈って・・(*´Д`)
いつ終わるかわからない疫病の蔓延、大雪、地震・・いろいろ相まって政情も安定しない。
政情が安定しないからいろいろあるのか、いろいろあるから政情が安定しないのか?
中国の古い言い伝えでは為政者が徳を失うと天の意を以て姓(=為政者)を易(かえ)るといい、これを易姓革命と呼ぶそうです。
旧暦3月3日、この年のその日は現代暦でいえば3月24日、もう4月に近い日です。
なぜ3月3日が選ばれたのか・・
江戸詰め大名は毎日登城したわけではなさそうです。
五節句ともう二日、必ず登城して将軍に祝辞を言上する日があるそうですが、その中の一日3月3日上巳の節句いわゆるひな祭りの日が決行の日に選ばれました。
想定外としては南岸低気圧の接近により大雪となったこと、これは襲撃側に利することとなりました。
わが家の雛さまです。お大名でないのでちっぽけですが、季節感は伝わるかと・・・(;^ω^)
当時幕府は緊急的で大きな課題を二つ抱えていました。
病弱で世子のいない第13代家定のもしもの前にだれかに継がせる必要がある。誰に?
異国から修好通商条約の締結を迫られている。どう対処する?
両者は別な案件ながら複雑に錯綜して幕府を圧迫します。
そんなとき大老(老中の特別職、常設はされていない非常の職)に就任したのが彦根藩主井伊直弼、藩主の14男であり大老どころか藩主さえありえない立場です。
存外にお鉢が回ってきたというところでしょうが、そこはそこ、人物を買われてということでしょう。
期待どおりなのかやりすぎなのか強権発動を断行します。
継嗣は水戸派(慶喜)と南紀派(慶福=後の家茂)の争いがある中、帝からの”この難局の折は経験ある方がよい” との声も無視して若い慶福を推戴、条約は勅許を得ずに独断で締結、これには反発を買います。
戊午密勅事件を契機に頂点に達した尊王攘夷の争いをはらみます。
開国に勅許が要るか?
幕府独断で開始した鎖国ですから独断で鎖国をやめるという理屈もありそうです。
鎖国の際はだれも幕府に反意を示せませんでした。むしろ薬の効きすぎというか鎖国は国是レベルになっています。
この時点、幕府にはもう独断を押し通す権威が失われつつあります。
それゆえの強権発動でもあったでしょう。幕府権威の回復です。
反発した勢力に対しては徹底した弾圧を加えます。
安政の大獄と呼ばれるもので多数の知識層が囚われ、処罰、牢死させられます。
その中には水戸藩関係者が多数含まれます。というかむしろ水戸藩がターゲットといった感じです。
”もうたまらん!” という暴発がこの事件の原因と言われます。
そしてもう一つの”モ~” 牛肉食べた~い!
彦根藩は武具の材料として牛皮を得るため、唯一牛の屠殺(とさつ)が公認されていたようです。
いわば”廃材” として肉が採れます。それを味噌漬けにして各有力大名にも”薬”として付け届けしていました。
直弼に変わって藩政改革でこれをやめます。
グルメの水戸藩主は”薬” が大のお気に入り。
”今年は来ないがどうした・・催促してみよ”
”まだ来ないのか”
といったことが公式記録に載っているそうです。
催促されても直弼は拒否、こういうところが ”この偏屈が~ ばかたれ~” と生理的な嫌悪感を生んだのかもという説があります。
いやな奴には半端ない報復も何気にやりやすいですからね。
襲撃は脱藩者であり、表向き水戸藩は関係ありません。ただ、ほんとに”白”だったか疑いは拭いきれない問題です。
襲撃の合図ともなった短銃・・逸品でそんじょそこらで調達できるものではないとか・・・
・・大人げない話ですが、一番信憑性が高いかもしれませんね。あ~食い物のうらみ・・
さて、事件の顛末
襲撃側は覚悟の上ですから特筆ありません。厳しく当たられますが・・
襲われた彦根藩側、藩の処断として、闘死した者咎なし・家名存続許す、重傷の者罪一等を減じ配流、傷の浅い者お役目怠慢切腹、無傷の者お役目逃避斬罪。
武士には斬罪というのはありません。それを問われたということはその時点で武士の名誉面目を剥奪されたことを示します。
当然とは言え、とんだとばっちりです。
比較的新しい映画作品に変を再現した「桜田門外ノ変」と、変を生き残った両藩の二人(架空)の生き様を描いた「柘榴坂の決闘」があります。
当時のサラリーマン武士と同じサラリーマンとして身につまされるところがあります。
条約の強行締結、もし拒否すれば武力行使の公算大を背景としたものと言われます。
本当に国を思う人だったのかもしれません。
何も知らず感情だけで騒ぎまくる者が一番強い感じがします。
この事件を契機に幕府はいよいよ権威を失墜します。
水戸藩も藩内の論争が激化、有形力を以て血で血を洗う報復合戦に発展します。
一部は藩を超えた武力蜂起におよびます。(天狗党の乱)
この鎮圧後の処遇を巡り、幕府はますます信を失い倒幕の機運を高めます。
水戸は決して漫遊するなど安穏なところではなかったんですね。
もうすぐ新年、ひなまつりの3月には気が早いですが暖かくなる頃にはなんにつけても全面的にあったかくなってもらいたいものです。
年賀に向け祈ります。長文失礼しました・・・
立往生を強いる大雪の状況を見て江戸末期の事件を思い浮かべます。
ずばり桜田門外ノ変です。
その瞬間であれば、まさにこの目前の場所で惨劇が展開していたのでしょう。
右端に桜田門が見えています。井伊屋敷は左側ですが角度的に視界外でその方向は見えていません。
襲撃側はこのポイントしかなかったと思います。
桜田門はいわゆる見附門(門衛の詰所を設置した警戒厳重な門)であり、門をくぐられてしまえばもはや襲撃は不能、逆に井伊邸に近すぎると逃げ込まれたり、加勢が出て来て仕損じる・・ここしか・・・
そのわずかな距離での襲撃事件です。
襲撃側は愛宕神社に参集して成功を祈願のうえ出立、行列見物の物見遊山を装って桜田門の配置に就きます。
行列見物はミッキーのパレードみたいなもので”ガイドブック”(=武鑑)まであったようです。
だれも怪しみません。
その武鑑を携行し、間違いのない体勢をとります。
邸の門が開き、行列が目前を通過する刹那、第一撃であり襲撃の合図ともなる短銃が駕籠に向け発射されます。
護衛側は雪から変わった雨に刀に雨覆いを着けて縛っており、対応が遅れます。
付近は一瞬にして修羅場の現出です。
流血痕とともに切り落とされた腕や耳などが多数散在していたそうですが、その模様を描いたのが冒頭の図絵です。
その混乱の中、襲撃側刺客が直弼の駕籠に迫ります。
外から何度も刀を刺し入れたあと、直弼を引きずり出し首をとります。
直弼は居合の達人のようです。まだ老齢ということもありません。
しかし、最初の短銃射撃で即死ないし行動不能となる重傷を受けていたようです。
散々にというところかあっけなくというか、若き大老井伊直弼は落命します。
打たれた首は襲撃側が持ち去ったようですが、追跡者に深手を負わされたため果たせず自刃、付近大名屋敷に収容されます。
当事者直弼の首ということであれば返還などされることはないでしょうが、供の侍のものということで井伊家がもらい受けます。もちろん直弼の顔をよく知るはずの大名家でしたが・・
藩邸に帰った直弼は首、胴を縫い合わされた後、病を得たようです。
幕府の要人、まだ継嗣を定めていない藩主として死んでもらうわけにはいかなかったようです。
お見舞いも多数届けられます。
直弼は3月の末に病死したことになっています。
延命はお見舞いなどが効いたんでしょうね(*´Д`)
井伊直弼はなぜ討たれたのでしょう?
浅野内匠頭松の廊下など暗殺(未遂)事件は、動機、詳細が不明なものが多いですが、この事件はかなりのところまでわかっています。
おじさんの社会科復習ですが、また続きを書いてみましょう。
heritager.comさんの地図をお借りしています。
「西御丸」右手にかかる橋(土橋)にあるのが桜田門(外桜田門)、井伊家は紀尾井坂ではなくお堀端の邸。
今週の日比谷公園雲形池です。
今年は鶴の噴水の凍結があるかも・・と思っていたら、日本海側大雪になりました。
温暖化に伴う寒冷ってわけわからん話ですが、そういうことらしいです。
最後の輝きを見せる樹があります。
今盛りを迎える樹もあります。
ここ愛宕神社は江戸市中を見渡すランドマーク的な愛宕山に鎮座する神社ですが、歴史的な逸話が多く残ります。
その一つ、増上寺詣帰りの将軍様
”梅の良い香りがするの~ たれかこの石段を馬で往復して梅の花を取ってくる者はあるか?”
それに応えて曲垣平九郎という下級の武士が梅の花を献上し、以後重要されたという「出世の石段」です。
いったい何段あるんでしょうか?
登りは数えられません。息が上がってそれどころじゃなくなるんです。
ほんとに馬で? と言いたくなる急な石段です。
それともう一つ、最初のちょこっとの段、これも一段なんでしょうか・・?
徳川幕府崩壊の強いインパクトとなった桜田門外ノ変の襲撃側集結出発地になったほか、江戸城無血開城の会談地になったなど幕末に印象の強い地です。
境内にある変の襲撃側の遺蹟碑 さすがに顕彰碑や慰霊碑ではない
神社住のネコさんが日向ぼっこしてたりしましたが、日差しがあっても寒い週でした。
全体的には紅葉やヤマブキもほぼ終了です。
ふと去年の紅葉を振り返ってみます。
あまり人込みのする場所には行かないんですが、それでもなんのわだかまりもなく人が集っていました。
今年、外出には”気がね”が伴います。
まさかこんなに長引くなんて・・・ 頑張らなくていいんだよ、コロちゃん・・!
2019
全国空手道選手権 武道館
12月13日(日)に行われた空手の全国選手権です。
競技には二種類、対人で技を競う組手と仮想敵と対戦する型があります。
「型」は「刑」が含まれるからとか「形」とすることもあるようです。
この後攻撃に移ります。
上の二葉はこの型の特徴的な所作です。目にもとまらぬ・・が大げさでないスピードで”手の鎌”を振り下ろし戻します。型ウンスーです。流派によっては雲手などともいいます。
名前が違うと内容も異なります。
技の理解(解釈)の違いで微妙に、時には大きく所作が異なります。
今回はありませんが「分解」というのを見ると所作の意味がよくわかります。
テレビなどにも露出の多い喜友名選手の「アーナン」です。
コートをいっぱいに使って演武します。
女子決勝、清水選手の「チャタンヤラクーサンクー」です。いわゆる「持ち型」ですね。
上の演武開始の所作が空を見上げるようだと流派によっては「観空」と呼ばれる型のバリエーションです。
クーサンクーは「公相君」とも呼ばれます。
飛んだり跳ねたりなかなか躍動的な型です。
先に演武して相手を待ちます。
対する大野選手 型「パープーレン」、流派による別名「八歩連」。拳ではなく貫手で突きます。
静かな所作から急な動きに移ります。静かなシーンは次の動的なシーンに移る緊張感があります。
片足で立つというのはなかなかに難しい所作です。
体操競技でいう吊り輪の十字懸垂ですか、ぐらぐらばたばたせずに平然が必要です。
どちらも見ごたえありましたが、結局五輪代表清水が勝つのかな・・?
・・え~会場にどよめきが起こります。
なんら不思議はないんですが、やっぱり驚きですΣ(・□・;)!
型は全方位に向けて、時には複数の相手に対しても”戦い”ます。
だからどっちに向いても気合万全なんですが、そうはいってもやっぱり正面がメインです。
正面から見ていないからだろうな・・ 清水選手が小さく見えたんです。
五輪代表一年お預け、しかも開催確定か断定とまでは・・ というプレッシャー、疲れの蓄積というのはあるんですかね?
実は、競技の進行はこのブログでは後先逆、女子決勝→男子決勝です。
目の前で同じ五輪代表が敗れるシーンを目撃した喜友名選手にはそのプレッシャーもあったでしょうね。
型の判定もかなり変わりました。
以前は主審が”判定!” と声をかけ、四人の審判の挙げた旗の本数で勝敗を決めていました。
四人? すると同数も・・? そのときは主審の判定ですね・・
見ていると、型には攻撃や受けに拳を結ぶことを中心とするものと、手刀や貫手といった手を開いたままのもの(開手型)のタイプがありますが、上位に入ってくるのは開手型が多いようです。決勝もそうでした。
もう一方の競技、組手です。
高校生が準決まで上がってきています。しかも強いです。楽しみでしょう。
女子もなかなか猛者です。
組手は突き、打ち、蹴りで攻めます。
足で相手の足を払う足払いや組際などで相手の態勢を崩して技を決めるというのはありですが、柔道のように組んで投げて・・というのはなしです。
基本的に”寸止め”ですが、防具を着けるスタイルになってからは結構打撃します。
上段(頭部)蹴りなどもありますから、鍛えてないと頸を痛めそうです。
ただ、防具なしの時代の道着血だらけというのは少なそうです。
こちらの判定も以前は四隅の審判の旗だけでしたが、現在はビデオ判定が取り入れられています。
・・小さい大会では無理でしょうけどね・・
それに以前は先手一本だけで、その後の攻撃は判定外でしたが双方取るようです。
突きと蹴りは蹴りの方が高ポイントです。
空手も世界大会もあるし、大きくなりましたがまだマイナーですね。流派多数というのも一因かもしれませんが・・
東京五輪では正式競技ですが、その後は不採用になる流れのようです。
時代の流れでもあるんでしょうね・・
東京五輪・・どうなるんでしょうか?
この選手権大会も対策で連絡票を提出して入場、観客席も空き多し・・でした。