今回は諧謔的、不謹慎な記事を書かせてもらう。
昭和35年(1960年)演説中の社会党書記長が刺殺されるという事件が発生した。
写真は演説の模様を撮影したカメラマンが最後の一枚で撮影した画像という。
俊敏に腹部に一撃を加え、さらに引き抜いた小刀で心臓をめがけまさに第二撃を加えようとするシーンであろう。
しっかりと腰を落とし、刃物だけに頼ることなく体重を預けて深々と刺突する。
小刀を使用する場合の模範的な形ではと思う。
あざやかで”すばらしい”とでも声が出そうなシーンである。
ただし、これは剣道の一本ではない。不当不法なものである。仮に命を奪わなかったとしても・・
よって、すばらしいなどという自身の表現に不謹慎とした。
書記長は緊急搬送中に死亡が確認された。
下が事件の舞台であり、現場も舞台だった。
建物の前の道路を左に進めばわずかな距離で国会議事堂に至る。
ところで同じ”浅”を書く浅野内匠頭の碑を見かけた。(記事にしたきっかけ)
紀元2600年(1940年 昭和15年)に自刃後240年を記念して建立したとある。
戦争の足音がそこまで聞こえてきている頃である。
まさにここということではないらしい。しかし、その現場はここから指呼の間とのこと。
浅沼書記長の犯人は小刀を振り回さず刺突により命を奪った。
武人であれば当然そうする手法である。しかし、内匠頭は眉間に一太刀、さらに逃げる相手の背にもう一太刀振りかざした。
もともと武具を帯びることを許さない場である。小刀しかも儀礼刀に近いものではなかったか。
致命傷とはならなかった。
内匠頭に本当に殺害意図はあったんだろうか?
行動を制する装束である長袴のセキュリティー勝利か・・
殺害に及んでもそれはそれで可、そうならないまでも上野介の権威を貶め影響力を奪えばそれで足りるとする黒幕がいたとする説もある。その場合、内匠頭は単なる”道具”である。
内匠頭は、不浄門とされる平川門から移送され碑の近くにあるお屋敷に預けとなる。
お屋敷では座敷牢をしつらえ、沙汰待ちの体制を取ろうとしていたが、即刻切腹が申し付けられた。
”いかような処分もあろうところ、切腹の栄を賜り有難い”旨を述べ、自刃したという。
朝に切りつけた者が夕には骸となる。非常に速い流れである。
切腹・・それは名誉ある死とされ、自分で命を絶つ。
他者による刑死である斬罪(打ち首)と根本的に異なる。
介錯は”たすけ”に過ぎず(・・実際にはこれで死ぬ)作法としても首を飛ばしてしまうことは不作法となる。
頸椎の間の軟骨部に刃を入れ、首の皮一枚を残して胴につなげたままとし、ひしゃくの柄を入れて胴とつながった状態で引き取らせるという。
頸椎の骨に刃を当ててしまうと苦痛に相手がもがき苦しむため二太刀とはならず、副介錯人が出て小刀で首を掻き切るという。副介錯人が出るということは介錯人の不作法不名誉極まりとなる。
だから介錯人にも相当な緊張感を与えるものらしい。
浅野内匠頭自刃、ここから忠臣蔵の長い展開が始まる。
何故刃傷に及んだのか? わからないから様々な憶測、仮想が語られる。
歴史上もかなり大きいミステリーのままである。