松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆住民投票を考えるー新城市の住民投票をきっかけに①(三浦半島)

2015-05-29 | 地方自治法と地方自治のはざまで

 このブログでは、住民投票について、過去に、いくつも書いてきた。新城市の住民投票を契機に、いろいろと考えることがあるので、断続的に書いてみよう。

 これまでも何度も書いたが、大要、私の結論は、地方自治における住民投票は、あまりいい制度ではなく、知恵が出なくなった時の最後の手段であるというものである。知恵と工夫、説得と妥協を繰り返していけば、地方自治の場合、必ず決着点があるというのが私の体験でもある。地方自治には100点はないからである。

 誰にもある種の事情、それなりの理がある。「人生いろいろ」とはよく言ったものである。私の価値とは違うが、なるほど、それも一つの価値であると思うことが多い。そういった多様な価値を持つ人たちが集まって寄り添って暮らす地方自治は、譲り合いである。だから地方自治では100点を取るのが難しいのだと思う。 

 住民投票が好きな人は、説得と妥協が苦手な人なのだろう。おそらく、学校のテストでも100点を取らないと気に入らなかったのではないか。65点とれば、評点は7で、5段階にすると4になると教わってきた私は、だから住民投票が苦手なのかもしれない。

 まえがきはこのくらいにして、住民投票である。
 住民投票は扱いが難しい仕組みである。最も難しいのは、終わった後に、どうやってノーサイドにするのかである。しかし、現実の住民投票は、主張が先鋭化し、非難合戦になる。ノーサイドをみすみす難しくしている。なぜ、そうなってしまうのか。

 それは住民投票は、A案かB案を選択する制度だからである。つまり、自分のほうが優れていて、相手は劣っていることを競争する制度なので、つい相手を非難することに走ってしまうからである。

 しかし、弥生時代から続く日本型自治のなかで、ずっと譲りあって暮らしてきた私たちは、この自己の優位を主張し、相手を非難する制度は、基本的に体質的になじめない。そこが、戸惑い、疲れる原因だと思う。

 ただ、同じ住民投票でも、首長や議会が決定した事項について、市民の投票によって効力を発生させるレファレンダムならば、その案のメリット、デメリットを比較的冷静に比較することができる。非難合戦はあまり起こらない。このケースでは、市民が冷静に判断するための「論点会議」のようなものも有効である(新城市で住民投票の前に市民まちづくり集会を組み込んだのも、そういった狙いがある)。

 他方、多くの住民投票は、住民運動の一環として行われる。これは間接民主制の仕組みの中で、説得に敗れ、多数派を構成できない人たちが、その他の市民を巻き込んで、結論を変えさせようとする試み(運動)なので、もともと両案を比較して市民が冷静に判断するものとなりにくい。多くの場合、自分たちの案に対して、多数の市民の共感を得ようと、イメージ戦略に走り、相手の非を責めたてることになる。

 そのなかで、自らの主張を通すためには、最も効果的な方法を模索することになるが、地方自治で言えば、市長や議員を悪代官や越後屋に位置付ける戦略が一番よい。陰で何か悪さをしているのではないかという、市民の既成観念にフィットするからである。それに対して、自分たちの案は、悪代官を平伏させる水戸黄門の印籠のようなものになる。

 本来、こんなやり方は、民主主義にとって、好ましくないことは誰でも分かっている。A案・B案の本質からもずれている。しかし、現実には、これに乗っかる市民も多い。A案かB案かを争う住民投票では、ともかく勝たねばならず、禁じ手に手を染めてしまうことになるのだろう。

 大変なのは、その後始末である。住民投票が終わった後は、再び間接民主制のルールに戻って、説得と妥協の中で、ものごとを決定して行くことになるが、これまでさんざん非難した枠組みの中に戻ってうまくやっていくのは、容易ではないからである。

 しかし、住民投票というルビコンを渡ってしまった場合は、踏ん張るしかない。

 市民自身は、これまでのいきさつを一度リセットして、気持ちを変え、行動を変えていくが求められる。そのための市民自身の決意とリーダーたちの後押しが必要である。最悪なのは、リーダーたちが、さらに市民を煽る場合である。その場合、非難の連鎖は永遠に続いてしまうことになる(リーダーの政治的野望が達成されるまで続く)。

 リーダーたちは、それに加えて、説得と妥協のルールを再構築していくことである。こちらのほうも、一度壊したものを、再度積み上げるようなものなので、気が遠くなるような作業であるが、そうしなければ、何も決まらない、空転の連鎖が続いてしまう。

 私から見ると、日本的地方自治において、住民投票は、デメリットばかりが目立つのに、なぜ住民投票の評価が高いのか不思議である。それはおそらく、論者たちは、住民自治を頭の中で、考えているからだと思う。

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3 コメント

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Unknown (新田博之)
2015-08-20 11:43:21
理屈としてはよくわかるんですけど、本来新城市長や議会の大半は住民投票を欲していなかったのに、なぜ住民投票が議会で議決されたのか?そこを松下先生はどうお考えなのだろうか?
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おうらくですが (マロン教授)
2015-08-21 07:40:01
 聞いたわけではないので、おそらくという感じですが、運動と政治の違いのように思います。

 運動ならば、単線で主張すればいいですが、政治の場合は、全体としてまちづくりを進めることが目的なので、そのためには、大局的に考え、これまでの主張を引っ込めるということをするのだと思います。

 その意味で、市長や議員の清濁あわせ呑むというか、包み込む力というのはすごいですね。その分、ストレスがたまる仕事だと思います。
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Unknown (新田博之)
2015-09-19 07:14:18
遅くなりましたが、返信いただいてありがとうございます。
一市民のコメントにまさかお答えいただけるとは思っていませんでした。

新庁舎建設を前進させるために、市長・議会はやりたくはない住民投票をやった、ということでしょうか。

地方自治の主体は、行政・議会だ、という先生の主張はよくわかりました。
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