松下啓一 自治・政策・まちづくり

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☆住民投票を考える(10)再び熟議の民主主義へ(三浦半島)

2015-06-11 | 地方自治法と地方自治のはざまで

 住民投票をめぐっては、感じたことをいくつか書いてきた。ここでひとまとめしておこうと考え、書き始めたら、実は、結局、すでに本に書いていたことと同じになった。その本は、2年ほど前に書いた『自治の旅』(萌書房)というこのブログの記事をベースに書き直して本である。エッセー風に書いたため、誤解を受けるが、本格的な地方自治論のつもりである。ここから、引用することで、ひとつのまとめとしよう。

 『・住民投票と民主主義
 住民投票制度をめぐっては、たくさんの論点がある。住民投票の対象となる案件、有権者の範囲(年齢、居住地、国籍など)、請求に必要な連署数と手続き、投票の成立要件(投票率によっては開票しないなど)など枚挙のいとまがない。反面、民主主義の本質にかかる基本事項については、所与のものとして、十分に議論されていない。

 住民投票は、民主的な制度の代表のように言われているが、私は、民主的とは微妙な距離にある制度だと考えている。これは民主的とは何かという理解と関係する。

 みんなが参加することが民主制の本質だとすると、住民投票はまさに民主的な制度である。だれでも投票に参加できるからである。しかし、民主主義とは価値の相対性で、さまざまな価値、意見の中から、より良いものを作り上げていくことが本質であると考えると、住民投票は、民主主義とは一定の距離がある制度になる。

 私たちの憲法の基本原理は、個人の尊重である。小さな声、弱い声も大事にされる社会をつくるのが憲法の目標である。言い換えると、私たちの社会は、数でAかBかを決める社会ではなく、知恵をたくさん繰り出して、AとBのよいところを伸ばしていく社会である。

 ハワイに行くか、近くの温泉にするのかの選択肢しかなく、数で負けると、近くの温泉に行かざるを得ない(たいていの場合、お金がかかるからといって、近くの温泉に決まる)。ハワイを提案したのは、この際、思い切って海外に飛び出てみよう、新たな世界を切り開いてみようと考えたからであるが、その思いがうまく伝わらない。話し合えば、思いが理解され、「じゃあグアム島にしよう」ということになるかもしれない。

 自分の関心事だけで動くのではなく、まちのことや他者のことまで思いが及び、それらの人々が持つ不安を乗り越える対案を出すのが、私たちの民主制である。住民投票は、参加の仕組みとしては優れているが、よりよいものを決定する仕組みとしては十分とはいえない。

・住民投票の権力性
 住民投票では、結果として少数者を数の力でねじ伏せることになる。数で決まったから従えというのである。住民投票は、小さな声を力ずくで否定してしまう。住民投票には権力性がつきまとうが、住民投票を声高に主張する人たちの持っている、ある種の権力性(非妥協的な雰囲気)に、私は戸惑うことが多い。

 住民投票の結果、コストがかかるからと言って、福祉施設はできないことになる。図書館も必要ないということになる。福祉施設利用者も図書館利用者も少数だからである。市庁舎も立て直しができないことになる。市役所職員も少数だからである。自分が福祉のお世話になるときに、はじめて、数で決めた愚を悟ることになる。大災害が起こって、市役所がつぶれて、救援機能がマヒしてはじめて、失敗だったとわかることになる。

 住民投票というと、私はすぐにヒットラーのナチスを思い出す。アウシュビッツは、ナチスのせいにされるが、ドイツ国民の大多数が支持したからこそできたのである。

 映画『ヒットラー 最後の12日間』では、ソ連軍が間近に迫るベルリンの地下指令室で、このままではベルリン市民の被害が甚大になるため、降伏を勧める幕僚に対して、ヒトラーは、「知ったことか。私は彼らに頼まれてこの戦争をしたのだ。自業自得だ」と言い放つが、つけは、結局、私たちに国民に戻ってくる。

 住民投票の無責任性も気になるところである。この制度は決定したことに責任を取る人がいないシステムだからである。少数者の立場からは、判断の間違いを訴えたいところであるが、多数者の市民は訴えの当事者にはなってくれない。住民訴訟で責任者を訴えても、「住民の意思に従っただけである」という回答が返ってくる。責任を取ってくれる人がだれもおらず、多数者によって権利を侵害された考える人たちは、訴えの持って行き所がない。』

 憲法改正の国民投票は、間近に迫っている。地方自治では、住民投票は、さらに多く使われることになるだろう。住民投票をどううまく使いこなすか、市民一人ひとりの力が問われているのだと思う。

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今回の新城市住民投票について (大沢真)
2015-06-23 01:33:47
今回の新城市の住民投票は、付け替え道ありの従来の新城市案と、市民案も考慮に入れた一部庁舎を残し道路を変えない再考新城市案の2つの行政側からの案の選択だったのですが、市側がどちらを選んでも大丈夫、というお墨付きで、穂積市長もどちらを選んでいただいても大丈夫です、ということをまちづくり集会で言っておられまして、これがいい発言でしたね。
当然両方とも市の案ですので、危険性やコストも視野に入れこれなら大丈夫という設計案です。
しいて言えば市側は初案押しだが、どちらも市で出した設計案ですので、片一方が不具合があるものは出していないのです。ここは今後スムーズに事が運ぶことをよく考えているなあと思います。
ですから今回の住民投票は新城市民は非常に安心して票を投じました。これはとても評価されるところです。ただ初案を多くの議員連盟が押し、再考案を市民運動側が押すのが目立ち、一見すると対立のような格好になりましたが、どちらも市側の完璧案のものだったので、そういったフィルターを通された安心安全良質な2案を提示して市民にお伺いを立て住民投票できたのは市民としてよかったと思っています。
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