3日目最終日
前日は出発が7時だったので5時起きでしたが最終日は9時20分出発なので、朝食もゆとりで色々食することが出来ました
今回の旅の決め手になった憧れの軍艦島への上陸、しかしながら天気予報通り朝から雨
昨日までの晴天はどこ行ったー一番の目的の日に
ホテルの送迎バスで昨日とは違う乗船場から小さな船に出航できるだけでも良しとして乗り込みましたが
外海に出ると船底が波に当たりものすごい衝撃で船の中は悲鳴が沸き起こっています
軍艦島まで19㎞の距離ですが船酔いする人が続出、私はジェットコースターみたいで楽しくて一人笑顔
海上から長崎の街を見上げると坂の街と言われるだけあって山の高い所まで建物があり、眺めは良いけど住むのは大変かなと思いました。
港にはイージス艦が停泊していたり巨大クレーンがあったり、海なし県に住む私には興味津々右を向いたり左を見たり状態です。
「NPO法人 軍艦島を世界遺産にする会」理事長さんで端島に住んでいた方が船の中で端島について説明をしてくれました
雨と荒波の中軍艦島が見えて来て感激
ドルフィン桟橋から上陸するはずでしたが・・・残念
桟橋の利用を禁止する場合の基準】
1.風速が秒速5メートルを超えるとき
2.波高が0.5メートルを超えるとき
3.視程が500メートル以下のとき
上記に当てはまってしまいました
日本の近代文化を支えた端島(軍艦島)
1810年(文化7年)ごろ、端島(通称:軍艦島)で石炭を発見。
それから80年ほど経過した1890年(明治23年)、三菱社が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の発掘が開始されました。
端島炭鉱の石炭はとても良質で、隣接する高島炭鉱とともに日本の近代化を支えてきました。
石炭出炭量の増加に比例するように島は急成長を遂げ、1960年(昭和35年)には5,267人が住んでいました。
当時の人口密度はなんと世界一。東京人口密度の9倍以上とも言われるほどでした。
島内には、病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並び、島の施設だけで
何不自由のない完全な都市として機能していたが島の半分以上は鉱場。
その残りの土地に病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並んでいたため、建物と建物の間はとても狭く
島全体が家族のように仲良く暮らしていました。
繁栄を極めた軍艦島でしたが、主要エネルギーであった石炭がその座を石油へと移ることにより衰退の一途をたどります。
1974年1月15日に閉山、この年の4月20日に全ての住民が島から離れ、軍艦島は無人島となりました。
” 廃墟の島 ” が現在でも人々の好奇心を掻き立てるのは、「島全体が繁栄当時のまま残っている」こと。
廃墟でありつつも、テレビを始めとする家電や生活の名残がそのまま放置され、昭和の生活を実感することが出来ます。
以上が端島(軍艦島)の簡単な説明です
上陸出来ないながらも島をぐるりと1周して全体像を見ることが出来ただけでも嬉しいです
島の裏側は波が少し静かで船上から暫しの写真タイムを設けてくれました
上陸できなかったので近くの高島へ寄港して「高島石炭資料館」を見学してここでしか買えないと言われたので
軍艦島石炭ラスクや石炭ポップコーンなどお土産を購入し、船内で石炭の原石を頂いたり上陸してないけど上陸証明書をもらいました。
高島から長崎港への帰りの方が船の揺れが少なくかったのですが、この後のクルーズは中止になったようです(+o+)
この前日は波も穏やかで上陸で来たそうで、この時期は比較的上陸確率が良いはずだったのに返す返すも残念でした
長崎平和公園見学時には暴風雨状態でチラッと見ただけで早々に引き揚げてきました
長崎市内はもう一度ゆっくり観光したいですし、軍艦島もリベンジしたいと言ったら船酔い気味だった主人や友人に
軍艦島はもうない!と言われてしまいました(笑)
大波や大雨にみまわれながらもこれも良い思い出と2泊3日の旅を楽しむことが出来ました
前日は出発が7時だったので5時起きでしたが最終日は9時20分出発なので、朝食もゆとりで色々食することが出来ました
今回の旅の決め手になった憧れの軍艦島への上陸、しかしながら天気予報通り朝から雨
昨日までの晴天はどこ行ったー一番の目的の日に
ホテルの送迎バスで昨日とは違う乗船場から小さな船に出航できるだけでも良しとして乗り込みましたが
外海に出ると船底が波に当たりものすごい衝撃で船の中は悲鳴が沸き起こっています
軍艦島まで19㎞の距離ですが船酔いする人が続出、私はジェットコースターみたいで楽しくて一人笑顔
海上から長崎の街を見上げると坂の街と言われるだけあって山の高い所まで建物があり、眺めは良いけど住むのは大変かなと思いました。
港にはイージス艦が停泊していたり巨大クレーンがあったり、海なし県に住む私には興味津々右を向いたり左を見たり状態です。
「NPO法人 軍艦島を世界遺産にする会」理事長さんで端島に住んでいた方が船の中で端島について説明をしてくれました
雨と荒波の中軍艦島が見えて来て感激
ドルフィン桟橋から上陸するはずでしたが・・・残念
桟橋の利用を禁止する場合の基準】
1.風速が秒速5メートルを超えるとき
2.波高が0.5メートルを超えるとき
3.視程が500メートル以下のとき
上記に当てはまってしまいました
日本の近代文化を支えた端島(軍艦島)
1810年(文化7年)ごろ、端島(通称:軍艦島)で石炭を発見。
それから80年ほど経過した1890年(明治23年)、三菱社が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の発掘が開始されました。
端島炭鉱の石炭はとても良質で、隣接する高島炭鉱とともに日本の近代化を支えてきました。
石炭出炭量の増加に比例するように島は急成長を遂げ、1960年(昭和35年)には5,267人が住んでいました。
当時の人口密度はなんと世界一。東京人口密度の9倍以上とも言われるほどでした。
島内には、病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並び、島の施設だけで
何不自由のない完全な都市として機能していたが島の半分以上は鉱場。
その残りの土地に病院や学校・寺院・神社・派出所や映画館・理髪店などが立ち並んでいたため、建物と建物の間はとても狭く
島全体が家族のように仲良く暮らしていました。
繁栄を極めた軍艦島でしたが、主要エネルギーであった石炭がその座を石油へと移ることにより衰退の一途をたどります。
1974年1月15日に閉山、この年の4月20日に全ての住民が島から離れ、軍艦島は無人島となりました。
” 廃墟の島 ” が現在でも人々の好奇心を掻き立てるのは、「島全体が繁栄当時のまま残っている」こと。
廃墟でありつつも、テレビを始めとする家電や生活の名残がそのまま放置され、昭和の生活を実感することが出来ます。
以上が端島(軍艦島)の簡単な説明です
上陸出来ないながらも島をぐるりと1周して全体像を見ることが出来ただけでも嬉しいです
島の裏側は波が少し静かで船上から暫しの写真タイムを設けてくれました
上陸できなかったので近くの高島へ寄港して「高島石炭資料館」を見学してここでしか買えないと言われたので
軍艦島石炭ラスクや石炭ポップコーンなどお土産を購入し、船内で石炭の原石を頂いたり上陸してないけど上陸証明書をもらいました。
高島から長崎港への帰りの方が船の揺れが少なくかったのですが、この後のクルーズは中止になったようです(+o+)
この前日は波も穏やかで上陸で来たそうで、この時期は比較的上陸確率が良いはずだったのに返す返すも残念でした
長崎平和公園見学時には暴風雨状態でチラッと見ただけで早々に引き揚げてきました
長崎市内はもう一度ゆっくり観光したいですし、軍艦島もリベンジしたいと言ったら船酔い気味だった主人や友人に
軍艦島はもうない!と言われてしまいました(笑)
大波や大雨にみまわれながらもこれも良い思い出と2泊3日の旅を楽しむことが出来ました
ひょっとしてヤマちゃんさんは船酔いするんですかね?
私は船酔いも乗り物酔いもほとんどしたことが無く辛さが分かりませんが多変なんでしょうね
長崎、またゆっくり訪れたいですね
船酔いに強いナナさんが羨ましいです
長崎は 又行きたい観光地ですね。