夢窓疎石をご存知でしょうか。今から700年ほど前の鎌倉・南北朝時代の僧なのです。晩年には京都天竜寺の開山となるほどの名僧なのですが、その彼が土佐に来て、五台山に吸江庵を建立していたのです。43歳ほどの頃ですから血気盛んな頃でしょうね。
夢窓疎石が庵から出た後も、守護代細川氏や国主長宗我部氏の尊信保護を受けていましたが、長宗我部氏の衰退と共に寂れておりました。
長宗我部氏12代兼能が吸江庵の寺社奉行に任命されたとの記録がありますから、この辺りからですね。ご縁が出来たのは。
かの長宗我部元親は21代ですから、随分と昔の話です。
ということは、長宗我部氏を初め土佐の武士達も、彼に会っているはずなのです。当代一流の学僧と彼らがどのような形で出会い、何を話したのか興味があるところです。多くの門弟を育て、その数1万とも言われる国師のことですからね。
知と武が出会って、多分新しい何かが産まれていったのです。
その後の長宗我部氏の隆盛と衰退に吸江庵がどの様に係っていたのか、興味のあるところです。
慶長6年(1601年)山内氏入国後に山内一豊の命により湘南和尚によって再興されるのです。この時から京都妙心寺の末寺となりましたが、傑物が出始めるのです。
さらに、湘南和尚にしても夢窓疎石が開いた庵を吸江寺として再興することに感慨深いものがあったことでしょう。
吸江庵。少し調べてみましょう。かつて五台山にあったのです。
夢窓疎石が庵から出た後も、守護代細川氏や国主長宗我部氏の尊信保護を受けていましたが、長宗我部氏の衰退と共に寂れておりました。
長宗我部氏12代兼能が吸江庵の寺社奉行に任命されたとの記録がありますから、この辺りからですね。ご縁が出来たのは。
かの長宗我部元親は21代ですから、随分と昔の話です。
ということは、長宗我部氏を初め土佐の武士達も、彼に会っているはずなのです。当代一流の学僧と彼らがどのような形で出会い、何を話したのか興味があるところです。多くの門弟を育て、その数1万とも言われる国師のことですからね。
知と武が出会って、多分新しい何かが産まれていったのです。
その後の長宗我部氏の隆盛と衰退に吸江庵がどの様に係っていたのか、興味のあるところです。
慶長6年(1601年)山内氏入国後に山内一豊の命により湘南和尚によって再興されるのです。この時から京都妙心寺の末寺となりましたが、傑物が出始めるのです。
さらに、湘南和尚にしても夢窓疎石が開いた庵を吸江寺として再興することに感慨深いものがあったことでしょう。
吸江庵。少し調べてみましょう。かつて五台山にあったのです。