「高知新聞生る、何がために生まれたるか、時代の要求に伴ふて、我が県民と相携へ、倶に共に新天地を拓開せんとして呱々の声を揚げたるなり・・」
高知新聞の発刊の辞です。明治37年高知新聞の発刊に参加した富田幸次郎の筆によるものです。当初は主筆として、後に第2代の社長に就任して、高知新聞の土台作りに努力するのです。
今日はその富田幸次郎を紹介したいと思います。
明治以降100年を越える国会の歴史の中で、高知県から5人の衆議員議長を出しているのですが、その1人でもあるのです。さらに衆議員当選10回というのですから、半端では在りません。明治41年の第10回総選挙に出馬。当選して議員活動を始めるのですが、胆力があり人情味あふれる政治家だったそうな。
「踏まれてももえ出る草の力かな」彼が衆議員議長に推されて詠んだ俳句です。
濱口の陰に隠れて、党務でも幹事長などまとめ役に徹していた彼が、議長という晴れがましい地位に就いた感慨が感じられます。
出身は現在の安芸市川北。川北小学校から芸陽学舎に学びます。卒業後教員をするのですが、政治問題に関心を持ちはじめて、土陽新聞記者となります。記者としても活躍をしていたのですが、会社内の内紛に嫌気がさして、先に紹介したような高知新聞の発刊に参加するのです。
先に紹介した濱口雄幸の政治活動を支えた一人でもあります。金融恐慌への対策や、軍部からの圧力に苦悩する浜口の仲間でした。
明治のジャーナリストであり政治家。さらに乞われていくつかの会社の経営者としても実績を残しています。
しかし贔屓目に見ても、幕末から明治にかけての男達のかっこいいこと。
すごいねえ。
高知新聞の発刊の辞です。明治37年高知新聞の発刊に参加した富田幸次郎の筆によるものです。当初は主筆として、後に第2代の社長に就任して、高知新聞の土台作りに努力するのです。
今日はその富田幸次郎を紹介したいと思います。
明治以降100年を越える国会の歴史の中で、高知県から5人の衆議員議長を出しているのですが、その1人でもあるのです。さらに衆議員当選10回というのですから、半端では在りません。明治41年の第10回総選挙に出馬。当選して議員活動を始めるのですが、胆力があり人情味あふれる政治家だったそうな。
「踏まれてももえ出る草の力かな」彼が衆議員議長に推されて詠んだ俳句です。
濱口の陰に隠れて、党務でも幹事長などまとめ役に徹していた彼が、議長という晴れがましい地位に就いた感慨が感じられます。
出身は現在の安芸市川北。川北小学校から芸陽学舎に学びます。卒業後教員をするのですが、政治問題に関心を持ちはじめて、土陽新聞記者となります。記者としても活躍をしていたのですが、会社内の内紛に嫌気がさして、先に紹介したような高知新聞の発刊に参加するのです。
先に紹介した濱口雄幸の政治活動を支えた一人でもあります。金融恐慌への対策や、軍部からの圧力に苦悩する浜口の仲間でした。
明治のジャーナリストであり政治家。さらに乞われていくつかの会社の経営者としても実績を残しています。
しかし贔屓目に見ても、幕末から明治にかけての男達のかっこいいこと。
すごいねえ。