ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

素晴らしい出会い。

2009-12-27 15:33:35 | 好きなもの
 もう40年も前のことです。
 私が青春真っ只中だった頃、会いに行ってみたくなって、出かけたのです。
 わざわざ、奈良斑鳩の里。中宮寺まで、一人で出かけたのです。なんで?といま自分に問いかけても、「解りません。」

 土讃線に乗って、宇高連絡線に乗って岡山までそして大阪へ行って、奈良へ向かったのです。

 初めての一人旅でした。しかし不安はなかったような。

 奈良駅からバスで斑鳩まで、法隆寺の隣に中宮寺。
 思ったより小さな庵のような本堂に、彼女は座っていました。
 木造の小さな本堂でした。
 少し微笑んで、「よう来たね。」そう言われた気がしましたよ。
 そんな他愛もないような記憶しかありませんでしたが、昨夜ふと「そういえば行ったことがあるね。」
 靴を脱いで座ったことは覚えているのですが、それから後のことは記憶がないのです。もう40年も昔のことですからね。
 多分手を合わせ、頭をたれて、何かお願い事でもしたのでしょう。

 あとは、法隆寺にでもいって、そのまま京都へ向かったのです。
 京都で何をしたのかの記憶はないのですが、いいのです。
 彼女に会えたのですから。
 菩薩半跏像。国宝なのです。

 うん!!菩薩様って女性ダッカ??。
 いい。そういえば理数系の高校に通っていたのに、大学受験は史学だった。失敗したよなあ。古文・漢文はまるで解らなかったなあ。今でも駄目です。

 これも思い出の一つです。
 菩薩半跏像。イマデモスキデスネエ。

 

男子の本懐

2009-12-27 12:52:10 | 高知県東部人物列伝
 ライオン宰相として有名な濱口雄幸氏を紹介します。気骨あふれる明治の男なのです。
 昭和5年、東京駅で右翼の青年に狙撃された濱口雄幸首相は駅長室に移された後傍にいた幣原外相に「男子の本懐だ。」といったというのです。そのようになるかもしれないとの危惧は抱きつつ、信念を曲げることなく、当時の国粋的な風潮に向き合ったのです。ロンドンでの軍縮会議のことです。突出する軍の力に自ら向き合っていたのです。
 ロンドン軍縮会議での条約承認は、濱口雄幸の意思と決断によるもので、政党内閣の勝利であって、日本の民主主義にとっても銘記すべき事だったのです。

 彼の内閣が発足した昭和4年は、ニューヨーク株式取引所における大暴落を契機として世界恐慌の最中だったのです。もちろん高知県出身の初の内閣総理大臣でした。

 高知市で産まれた彼は、高知中学在学中に縁あって田野町の濱口家の夏子16歳と結婚。濱口家の養子となり、東京大学を経て大蔵省に入ります。
 当時の高知は自由民権運動が最盛期で、板垣退助、片岡健吉、植木枝盛等青年期の濱口雄幸にとっては綺羅星のごとくの諸氏が各地で活動をしていたのです。かれも、議論を繰り返していたとの記録があります。

 濱口家は安芸郡田野町で18代も続いた豪家で、雄幸は18代義立(よしなり)の婿養子となったのですが、義立の妹は、かの清岡道之助の妻、静ですから父親の代には討幕運動から明治維新にかけての攻防の最前線にいた方々がいたことになります。もちろん彼等は、奈半利川原での23士の処刑をも、じっと見ていたはずです。

 「国家政策の手段としての戦争放棄を遵守する。」命を架けて政治家として、信念をつらぬき通したことになります。
 今の政治家の先生方は、命がかかってってないような・・・。