ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

MAPの表紙

2010-04-19 13:59:09 | Vision East
 このきり絵を今作っているMAPの表紙にしようと思います。
 奈半利の特徴はやはり石塀ですからねえ。
 なはり浦の会の会員、前田集氏の切り絵の作品です。



 新しいMAPは白と黒。モノトーンで落ち着いた印象のものにしたいですね。
 学校の特に高校生ぐらいに研究課題として提供できればいいと思っています。

 彼らが、ボランティアでガイドなどに来てくれると、うれしいなあ。
 テーマを決めて、人に話す。いい勉強になるでしょう。地域理解を深めるのにはGOODです。
 あるものの説明ではなく、何で出来たのか考えてくれるといいな。
 そんなことを考えておりました。

なはりA地点

2010-04-19 11:57:10 | 昔話
なはりA地点。ご紹介します。野根山街道の入り口です。A地点として、思いつくままを書いてみたいと思います。



 町中を走る野根山街道が山懐に入るところです。この場所から、野根山山系に入り尾根道を通って安芸郡東洋町野根にむかうのです。
 このあたりは、古代の奈半利にとっても重要な場所だったのです。

 この場所から南側に弥生時代には、すでに人が住んでいたらしいのです。石斧や石包丁が出土しているからです。四手井山の南斜面とされています。多分、水の調達が楽で、かつ奈半利川が東西に流路を変えていたそうですから、その危険から身を守れる場所。安全と快適性を考えて、この場所だったのでしょう。石包丁は稲穂を刈る道具でしょうから、稲作をやっていたそうな。西暦で言うと紀元前100年とか200年といった頃でしょうか。
 
 奈良時代の中期頃でしょうか、コゴロク廃寺が建立された場所だといわれております。
 南国の国分寺が建立された頃だとされています。8世紀中頃のことですね。
 この場所は、古代における高知の安芸郡のある意味、中心地だったことになりますから、県史など読んでいても、納得なのです。今は何もありませんがね。田畑が広がっているのです。

 幕末に「なはり焼」という窯が築かれたのもこのあたり。利用可能な粘土を産して、窯を作る傾斜があって、燃料としての木材が調達しやすい場所なのです。

 そして長曾我部元親の軍が野根の城を落として、土佐全域をまとめたとき、野根からこの場所に下りてきて、多気・坂本神社に参拝をしたのです。ここからその神社まで1KMちょっとかな。戦勝お礼に手を合わせて、それから軍を岡豊城に帰したのだそうな。

 もちろん、8世紀初頭、官道としての野根山街道が開かれたときから、明治33年(1900)に廃止されるまで、1200年近く、どのくらいの人々がこの場所を行き交ったのか想像も出来ないのですが、多くの物語を今に伝えているのです。この場所を「なはりA 地点」としてご紹介しました。
 私は、この辺りが「奈半利が始まった場所」だと考えているのです。
 そしてこうした里山は、人が住み始めた頃から、食料や燃料を調達していた場所なのです。養い親のような場所です。


向こうのに田野町の大野台地が見えます。そして奈半利の町が目に飛び込んでくるところです。

近くに、石碑が建てられています。
そうですね、奈半利にはたくさんの記念碑というか、石碑が立っていますから、改めてご紹介しましょう。