ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

なはりE 地点

2010-04-27 21:40:25 | 手前かってな推論。
 高知県の東部地域の財産かと思います。多気・坂本神社です。

 高知県だけなのか、よくわかりませんが8世紀以前の情報があまりないのです。
 古代のことで記録が少ないのは、仕方ないことなのでしょう.
 土佐の国司や郡司が国に対し報告書を提出しているのでしょうが、都は戦いの連続で、焼失したりもしたのでしょう。
 それだけに、残された少ない情報を精査する以外、することがないのですが、推論することが多いだけに、楽しい作業です。


 写真は多気・坂本神社の入り口にある神輿橋です。
御祭神は、多気神社が武内宿禰で、坂本神社が葛城襲津彦命です。
 境内社として壱岐神社(壱岐直根子命)、多賀社があります。
 
 多気神社・坂本神社は共に延喜式内社です。両社は宝永(1704~10)の頃に合祀されたと伝えられています。
 延喜式内社とは、醍醐天皇の御代にまとめられた、延喜式神名帳に登載される古社の事です。
 御祭神の武内宿禰は第八代孝元天皇の孫で、多くの天皇に仕えた長寿の方とされています。葛城襲津彦命は、武内宿袮の子神です。 この二祭神は蘇我氏の祖で、その一族が地域の守護神として祀ったものといわれているのです。

 


 さて、この神社がいつ頃この場所に造られたのか、資料等について読んだことがありません。研究不足ですがね。政治と宗教はいつの時代も合一してきたように考えています。

 もともと日本は神道の国だったはずです。その日本に6世紀の末から7世紀の初頭に中国から朝鮮経由で仏教が入って来たことについては、昔、学校で習ったと記憶しています。
 日本史上、最初の文明開化なのです。

 さらに、無理なこじ付けかもしれませんが、こんなことを考えました。

 長谷川が流れ出してきたあたりに人が住み始めるのです。海岸が近く、貝や小魚を採取できる場所。さらに野根山山系の麓ですから山での狩猟にも便利なところです。小枝等の燃料の調達が楽で、小屋の建設に必要であろう木材にしても豊富にある場所なのです。そしてこの付近で、稲作が始まったのです。奈半利川から取水して稲作をやるには、治水事業に無理があるからですし、暴れ川が落ち着くのはずっと最近になってからなのです。四手井山南側で弥生石器が出土していることも、納得の出来るところです。

 稲作が始まり、食料品の確保と燃料としての木材の調達と、水の確保が楽で、さらに日当たりがいい場所ですからね。そうした理由で人口が急増していったのではないか。

 そこから上流、清浄な場所を選んで、多気神社・坂本神社を造ったのです。背後の山々を霊的な場所として選ばれたところなのです。さらに、神への信仰の場の建設は人口の増大を生みます。周辺地域の信仰を集め人口の集中が起こりはじめるのです。
 大和の中央王権では、645年の「大化の改新」によって、すでに蘇我宗家は滅亡しているのですが、土佐の東部地域の僻地においては蘇我氏の一族が社を構える事が出来たのです。 そして、6世紀から7世紀にかけて、仏教が日本に入ってくると、8世紀も半ば頃、奈良の時代にコゴロク廃寺が建立されるのです。

 建立した場所は奈半利で最初に人間が住み始めた四手井山の南麓と多気神社・坂本神社の中間辺たりということなのです。
 もっと海岸に近い場所を「最初に住んだ場所」に設定したかったのですが、水がないのです。
 多分、水のない場所に人は住まないだろうと思うのです。
 
 コゴロク廃寺が建立されたであろう時期は、すでに野根山官道が出来ていたのですから、官道沿いには、田畑が広がっていたことでしょう。神社はすでにあり、さらに寺を建立するのです。それ相当の人数が生活していたことになります。食料品の調達が大問題であったはずなのです。

 この頃には、すでに今の野根山街道沿いには家が建ち、市が開かれていたのではないでしょうか。
 奈半利の最初の一ページは野根山山系の麓の場所から始まって、多気神社・坂本神社が出来ることで人口の増大が始まり、野根山街道が出来て人の往来が始まるのです。さらにコゴロク廃寺が出来ることで高知県東部地域の中心地となっていったのです。

 多気・坂本神社。高知県東部地域のパワースポットなのです。
 なにしろ1200年を越える程の長い期間、多くの信心を受けてきた場所なのですから。
 資料や記録がなくとも、奈半利には、間違いなく人が住み、営々と生活を営んできたことは事実なのです。そして神社が今ここにある、この事実は、大切にしなければなりません。

 奈半利E 地点としました。