ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

明治の玄奘三蔵。

2010-01-04 15:02:43 | 昔話
 箱根駅伝を見終わって、東洋大学の強さが際立っておりました。
 今日は河口慧海について書いてみたくなっております。

 駅伝と河口慧海は関係がありません。
  河口慧海は東洋大学の教授だったのです。あまり有名ではないのかもしれませんがね。どんな方だったのか紹介したいと思います。
 
 さて、玄奘三蔵はご存知かと思います。

西遊記のモデルのような、唐の時代に実際にいた僧です。
 もちろん孫悟空等はいなかったのでしょうが、経典を求めて天竺(インド)へ向かうのです。当時唐は鎖国政策をとっていた事から、密出国をすることになるのです。日本ではまだ大化の改新(645年)も起きていない頃の話です。

 その玄奘三蔵のような人物。今日は、河口慧海について書いてみようかなと思います。
 もう40年ほど前に彼の著書「チベット旅行記」を読んで魅せられてしまったのです。

 彼は今の堺市に1866年に生まれます。そして井上円了がはじめた哲学館(東洋大学の前身)を卒業後出家(1890年)するのです。
 その彼、仏教原典の研究のために1897年ごろ、インド・ネパール・チベットまで出かけることになるのです。当時はサンスクリットから漢訳された経典を日本語に再度翻訳していたものしかなかったのです。当時鎖国状態のチベットに経歴詐称して入国をし、そしてセラ大学に学ぶことになります。日本から出国以来3年が経過していたそうな。

 そのときの旅行記が6年後に帰国後発刊されて、ブームとなります。
 
 私も昭和の時代に講談社学術文庫でこれらの作品に出会って刺激を受けたのです。面白いのです。そんな馬鹿なといったカルチャーショックの連続です。

 再度ネパールへ出かける際、彼は黄檗宗一切蔵教を京都の版元から買い受けると、それを土産に出かけるのです。
 それが今でも、ネパールの国立公文書館の蔵書として存在しているのですから大したものです。なにしろ仏陀が生まれた地に、日本で印刷された経典が里帰りをしたことになるのですから。「翻訳が違うぞ」とか「よくやったなあ」とか、どんなだったのかな。ネパールでの評価はね。

 1915年帰国した河口慧海は東洋大学の教授となり、仏教の原典研究、旅行記の執筆後進の指導にあたったのです。
 昭和20年80歳で没だったそうな。

 井上円了曰く「諸学の基礎は哲学にあり。」意思なき行動は無益なのです。
 そのとおりかと思います。

 駅伝からチベットに行って、東洋大学に戻ってきました。
 今年も頑張ってブログを書きましょう。はちゃめちゃな記述で失礼しました。

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 ありがたいことです。
 

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