ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

南海道という道。

2009-10-25 13:54:33 | 昔話
 土佐の国府と都を結ぶ道が南海道なのです。しかしながらずっと同じルートであったわけでもないのです。前後期古墳時代をとうして、養老2年までの南海道は伊予国を経由しており、幡多の宿毛から中村を経て窪川・須崎高知・南国と今から考えると、とんでもなく遠廻りをしていたようなのです。畿内から淡路島に入りそこから阿波にそして讃岐を経て伊予へ、まるで四国の海岸線を一周してから土佐入国なのです。今の状況で考えると、伊予の国府までは高速道路があってそこから支線があったのですね。土佐へ向かう道がねそれが南海道なのです。もっとも後期古墳時代には徳島から南下しての道も利用され始めたようなのですが、余りにも瀬戸内海沿岸の地域が圧倒的に力があったのです。
 その当時の先進地は九州と畿内です。その間を隔てる瀬戸内海の海運が発達していたのであり、その安全を保証していたのが、四国の北部地域だったのです。
 さらに伊予を間にして九州の文化流入の痕跡が津野山神楽のようにあることを考えると、妙に納得する所です。土佐の文化流入は西から起こっていたと考えるほうがわかりやすいのです。
 そのため、蛮地土佐は、伊予のまだ先の山の向こうなのです。だから、養老2年の「続日本紀」にある「山谷険難」は四国山脈ではないというのです。で、さらに開発された野根山街道にしても、尾根道の山は急峻で、山が海に迫り歩きにくく、奈半利川・伊尾木川・安芸川さらに物部川と大小の河川が通行を妨げていたこともあって、延暦15年(796年)に北山越えの新道開発が試みられたのです。

 道が出来ると、駅家が出来て人馬の継立や宿泊・給食などの仕事が発生していたのです。もちろん道案内や荷役までもです。
 今の道路整備による、商店街の盛衰と同様なことが起こっていたのです。
 当然、義務的な賦役もあって大変だったこともあったでしょうが、道路は地域にとって大変重要な要素です。
 もちろん海運もあったでしょうが、天候に左右されることが多く、事故もあったのでしょう。もっとも効率的な場所が選ばれていったのです。
 
 

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