さて、ネタ切れではあるが、満州の研究を続けましょう。勿吉という名称が部族なのか、国なのかいまいちはっきりしないが、中国の史書にははっきりとその存在が書かれている。韓国などにとっては蛮族としてよもや自分たちと混血した部族と言う印象はないようである。しかし、「満族、本は満洲と称した。東胡の一支族に属し,白山と水の間で発祥した。族の起源は周代の粛慎に遡り,漢代には挹婁,南北朝時代には勿吉に埋没し、隋唐の時代には靺鞨となり、五代十国・宋・遼・金・元の時代には女真となる。」(『満族』天山網より)
とある。
「長春地区で最も早期に出現した城市(街)は「扶余王城」である。後漢から西晋の時代にかけて、扶余族の国家はずっと中原王朝に臣属していた。西暦493年、北方の勿吉族により滅ぼされた。西暦494年、扶余王は勿吉に国を追われ、妻子を引き連れて高句麗に逃走、ここに国は滅亡した。」(『長春市概史』長春市政府)
結局、5世紀に満州の中心をこの勿吉族が支配し、後に高句麗が滅び、渤海が建国された時にはおそらくは勿吉族が支配部族だったと考える。もちろん、韓国人は高句麗の後継国という主張をするだろうが、たぶんそれは希望であって現実はそうでない可能性が高い。
「北史 勿吉伝」には、「そこの家畜には豚が多く、羊はいない。米を咀嚼して酒を醸す、これを飲めば泥酔する。婚礼では婦人の服は裙広の布、男子の衣服は豚皮の衣、頭に豹の尾を挿す。その風俗は溺れるように手と顔を洗い、諸々の蛮夷で最も不潔である。」とある。つまり、米から酒を造る部族なのである。中国の史書に書かれている以上、これはきっと特殊な製造方法だったのであろう。
日本の歴史の中で酒蔵屋やしょうゆ屋に名士が多いことは皆さん気付かれるはずである。酒は秦氏が日本に持ち込んだですべてを片付けるが、ではその秦氏はどこから来たのか?シルクロードやその当時の中国でどのような酒が作られていたのかは承知しないが、米を咀嚼して酒を醸すと言う技術は秘伝とされ、日本には杜氏という職人集団だけが酒を作るとされていたのである。彼ら酒造り部族が職人集団として渡来し、そのご主人筋から依頼されると杜氏の親方は郎党を引き連れ季節工となったのである。
つまり、彼ら勿吉族の酒職人にとって、依頼主は勿吉族の支配者達だったのだろう。
とある。
「長春地区で最も早期に出現した城市(街)は「扶余王城」である。後漢から西晋の時代にかけて、扶余族の国家はずっと中原王朝に臣属していた。西暦493年、北方の勿吉族により滅ぼされた。西暦494年、扶余王は勿吉に国を追われ、妻子を引き連れて高句麗に逃走、ここに国は滅亡した。」(『長春市概史』長春市政府)
結局、5世紀に満州の中心をこの勿吉族が支配し、後に高句麗が滅び、渤海が建国された時にはおそらくは勿吉族が支配部族だったと考える。もちろん、韓国人は高句麗の後継国という主張をするだろうが、たぶんそれは希望であって現実はそうでない可能性が高い。
「北史 勿吉伝」には、「そこの家畜には豚が多く、羊はいない。米を咀嚼して酒を醸す、これを飲めば泥酔する。婚礼では婦人の服は裙広の布、男子の衣服は豚皮の衣、頭に豹の尾を挿す。その風俗は溺れるように手と顔を洗い、諸々の蛮夷で最も不潔である。」とある。つまり、米から酒を造る部族なのである。中国の史書に書かれている以上、これはきっと特殊な製造方法だったのであろう。
日本の歴史の中で酒蔵屋やしょうゆ屋に名士が多いことは皆さん気付かれるはずである。酒は秦氏が日本に持ち込んだですべてを片付けるが、ではその秦氏はどこから来たのか?シルクロードやその当時の中国でどのような酒が作られていたのかは承知しないが、米を咀嚼して酒を醸すと言う技術は秘伝とされ、日本には杜氏という職人集団だけが酒を作るとされていたのである。彼ら酒造り部族が職人集団として渡来し、そのご主人筋から依頼されると杜氏の親方は郎党を引き連れ季節工となったのである。
つまり、彼ら勿吉族の酒職人にとって、依頼主は勿吉族の支配者達だったのだろう。