Pandakingなgooブログ

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死角の光

2025-01-01 21:11:00 | 日記
好きなものと、向いてるものは違うし、得意であっても迎えてもらえないことは多々あるし、その気のない事柄に引き合いがあったりもする。

だから色々やってみる。
好みも流行も多分関係がなく、何かが続けてたいことと、それをいいよっていってくれる合致に、気づけるかってだけのこと。

気づけてなくたって、応じてもらえることもたくさんある。それでもいいってなれば、きっと続く。

まだ知らないでいるってだけのことに、光をどうみるつもり?

あるかもよ?
怖いかもね。

そーゆーもんさ。


渦中に思い馳せた時に

2025-01-01 18:46:00 | 日記
日本って国として、能登の震災に寄り添えてたって、能登に住まう人から見て、そう見えたのかなって疑問の残る一年に感じます。

困ってる人にまで「コスパ」って言い始めて、救えたとこまで、何か触れ得ないところで、「よその選択」に向かってた国に見えててしょうがない。

自己都合だの自己責任だの、震災後の単語に出始めたのが世紀を跨いだあたり。

「助けなさ」の量が年々増えてきてて、どこかの官僚さんには「出世理由」になるんだろうけれど…

この国で「被災しても大丈夫なんだ」って、今この国の国民は思えるかな?
子供でもその空気は察してる気がします。

被災を今後していく私たちは、その実施の最中で「大丈夫、きっと助けてくれる」って、信じてられる所作を、今、見つけてるかな?

どうだろう。

普通が普通にしてても手に入らないとき

2025-01-01 14:38:00 | 日記
「おせちを見ると地震を思い出す」輪島朝市の焼け跡は公費解体で広大な更地に「ぜいたくは言わないので平凡な暮らしを」復興への歩み


私はかつて住んでいた部屋を階下のガス漏れ火災で全焼させられたことを経験しています。

そのとき、「まずゼロ地点に気持ちと生活を戻す」までを「失った人間」は願うんです。

テレビもラジオも「周りの健常で、普通の生活」してられる人のためばかりの放送で、自分だけが惨めに悲しくって、辛い気持ちになり続けてたのも思い出せます。

「普通」がまぶしいんです。
「当たり前」が手元にない時ってあるんです。

そのとき、人は恵まれてなくたっていいので、「まずプラス、マイナスのゼロ地点」にありさえ叶えば、どんなにうれしいかって心地になるんです。

普通、が普通にしてて手に入らないとき。
その気持ちが記事から痛いほどわかります。

大家さんの配慮で仮住まいできた時、床と屋根があって、ゴロンとするだけが、当時どんなに嬉しかったか。

見定め

2025-01-01 14:26:00 | 日記

伊集院光がM―1審査員〝漫才の人だらけ〟に疑問「滅びるよ」(東スポWEB)
漫才が「わかる」「わからない」ではない地平で「量る」ためにも、身内同士以外の視座が欲しい気がします。

誰にも楽しい、の方が圧倒的にゴールな気もします。