「自分」という言葉の所以が「自然から分かれて」にあるのを知った時、しゃらくさい!とまで思った不届きものですが、ことの成り行きの上で、自分が自分がと息巻く時よりも、周囲からの思わぬ巡りで事態が動いたり、助けられたりが重なるにつれ、我を張って振る舞う時よりも、自然に任せるスタンスのうちの方が、事態を萌芽させやすく動くのを強く覚えるのです。
「自分がそうしたい」は大事ではありますが、「周りがそうさせてあげたい」はもっと大きな輪を作って動きます。
自分がただあがくよりも、大きく世間のうちにあってあがいてる方が、「ありよう」に作用される手筈が多彩かつ鷹揚に感じられます。
厳密に「思ったとおり」をゴールに定めると、自身の知ってる事や規範の範疇から抜きん出た発想もないのです。
でも大勢の中でどうしていたいのかをあたふたしてると、「これじゃない?」は起こるんですよね。
自分に枠外の智慧に、あ、これは勘付きませんでしたってのがたくさんあるんです。
自分が、と言いながら、「自然の一部分が」と言い換えてもいいように、手出しされる存在として、あらかじめ処置しておける、てのもわきまえておいていいなって思えるようになってきました。
大きなものに巻かれておく、ってんでもないです。どのみち自分は自分ですので。
人が触れるかどうか、の加減に、緩さを保てるのも、力のうちね、ってことなのでしょう。
よそに気づかれる自分であること、も一つ答えなのでしょう。
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日本ではいいの?ってのが増えてきてる。
日本で過ごしてて、守られてないかもってこの頃強く思う。
懸念に「ノータッチ」貫いて見える。
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微塵も局サイドに慮れるもののないやりくりでした。徹底的に分水嶺を悪い方に渡り切りました。
事件の本質に深刻に対して、身の丈にあってない人が的外れな態度で一貫したので、お終いに導いた図でした。
説明が出来ない人がなぜあの場にいたんでしょうか。もう挽回の機会は損なったので既定路線の退場に向かうでしょう。
業界もスポンサーも巻き込める大スキャンダルなので「身の丈」を見極められる人が応じなくてはいけません。
一斉に傷み、過剰に劣化、怠慢も晒しました。
流れに棹刺すような真似もできないでしょうね。「せなおさまらん」時にまで「しちゃえる」のがもう限界なのでしょう。
そもそも、そういうまな板の上の鯉。