きっと多分、正しくて正確では、足りないんだと思う。
おかしさや辻褄の合わなさに、安堵や人らしさを、人は覚えるのを、人はあまり上手に伝えあってないんでしょう。
そこそこ緩く、あちこちツギハギであっても、いやむしろその方が、人は構えないで向き合えるのだろう。
すごくなさ、がなくては浸透しないものがあるのをタオのような教えにはごくすんなり含んでも見えるが、実践に足る物腰の良さとしては、共有されてはいまい。
揚げ足取りや、一過性のワンイシュー如きで威張り散らせる世情の陳腐は、そう長く維持できないでしょうし、何より品のなさで淘汰は進み再浮上の機会もないでしょうね。
柔らかく生き、丁寧に向かい、過剰に苛まず、無益に謙虚を重ねない、適切さのある物腰でありましょうや。
息遣いがゆったりした双方であってこそです。
ひとしきり昨日までで「頑張れば出来ること」までは済ませられたので、今日以降は頭脳労働の方でクオリティの洗練、ブラッシュアップにフェーズを変えました。
正確にいえば、うんと前から「決めかねて寝かしてた案件」に着手するだけの余力の出せるとこまで、他のことの片付け待ちが済ませられた、ですね。
と、毎度この節に感じてるのが「一生懸命捻り出す」アイディアほど、面白くも楽しくも至れない、ってことです。
努力で知見は集められ体系づけも叶いますけど、そこ止まりだと「死骸」よろしく瑞々しいとは言い難い様子です。
それはそうした捻り出しの結果を相手に示しても、ふくらみように、どこか限定的なものが伴ってて、今ひとつ欠けた印象がするんです。
今ある知見のうちからだけでは、「捻り出し」は出来ても、新規性というか、意外性とか突拍子のなさが足りておらず、杓子定規で既定路線のつまんなさも宿る気がします。
驚きが足りんのですな。
ゆえに、発想のし始めからしつらえとか趣を「ずらしておく」様子を一欠片でもいいので、混じりこまませます。
既定の知れた情報を右から左に渡すなんてのは、一番退屈で、どなたもまず喜ばない。
どっかで知れそうな手合いの豆知識であっても、それを楽しく自分ごとにするには、幾らかの「魔法の粉」をまぶす必要がありますね。
頓知がいるのはここからで、「渡し方」も凝れれば、「渡すもの」の質の良さだって発掘しがいのあるとこです。
どっちも凡庸にも済ませられますけどね、ここにアホみたいの凝るから楽しいんじゃありませんか。
そこが人の腕の部分でしょう?