もう閉幕してひと月近く経過しているので遅きの感大いにありですが、ちょっと更新のリハビリ?もかねて軽く感想を書き留めてみます。
観劇関係の方が正直書き方にとても気を使うのですが(以前噛みつかれたこともありますしねw)当然のことですけどもまた改めて注意書きを冒頭に書きます。
その注意書きを無視して度を越したコメントを残された場合は削除する場合もありますのでご了承ください。
よろしいですね、ちゃんと書きましたよ?
注意書きはたったこれだけ。感想はあくまでも私の私見によるものですので押し付ける気もないですし正しいとも言いません。
ですから読まれたあなたの意見と違ったとしてもそれはそれで結構ですが、事実関係の訂正を除き意見の削除や更改の求めには応じません。
世間にはたくさんのブログがありますので、ご自分の意見と合うところを探すなり、黙ってブラウザバックをすることをお勧めします。
私はこう思ったというご意見は場合によっては拝聴しますが過度に一方的かつ攻撃的なものは受け入れかねます。
さて、始めましょう。
3年の間隔を置いて開幕した東宝エリザベート、まず特筆すべきは演出と舞台装置の大幅な変更に加えて、キャスト陣が一新されたことです。
全体的に若返ったキャスト一覧を見て期待と不安を抱きつつ帝劇に足を運んだのが6月14日。最初に観たのは花總シシィ+城田トート
(佐藤フランツ・京本ルドルフ・尾上ルキーニ)でした。
まず焦点として注目したのが「伝説のシシィ」として国内では名高い花總シシィが帝劇ではどんなシシィ像を魅せてくれるのか。また、5年前に旧演出で
トートを演じた城田さんがどう変えてくるのか、あるいは変わらないのか。ミュージカル経験が乏しい佐藤フランツは果たして皇帝に見えるのか。
ジャニーズJrであり京本二世であるルドルフは、梨園の人気役者松也はいかに?
結果として上々の滑り出しでした。特に、今までずっとタイトルロールは同じ宝塚OGとはいえ男役から迎えていたものが娘役からということで
エリザベートの強さやエゴイスト(だと本人はあまり思っていなかったのではないかと史実を紐解くに思われますがそれはさておき)ぶりをどのように
花總さんが表現するのか興味津々でしたが、少女時代から晩年までとても自然な流れで演じ続け、特に秀逸だったのが一幕ソロの「私だけに」、
今までこのソロでここまで感動したことはなかったというほど心動かされたことは忘れがたい記憶です。
また、前回5年前はどうしても歌唱に不安定さがぬぐえなかった城田さんも5年間の経験をきちんと活かし、舞台上では余裕さえ感じさせてくれました。
もっとも、ご本人いわく前回同様胃薬のお世話になっていたそうなのでプレッシャーは前回に負けないほどのしかかっていたのかもしれませんが。
後述しますが、Wキャストのもう片方である井上さんとは全く異なるトートで双方それぞれ良さを存分に享受できました。歌詞の中にある「蒼き血を流す」トートとしては
城田トートの方がより人間離れしている印象を強く受けるものでした。城田トートが青い炎ならば、井上トートが赤い炎といった具合でしょうか。
佐藤フランツはオペラ歌唱ならではの聴かせる歌で皇帝としての威厳を表現しましたが、どこか妻であるシシィに対してどう応えていいのか測りかねているフランツ像に
見えました。優しさを持て余すというか、自由を求め続ける妻を束縛しないことでのみ愛を示すかのようで。一方の田代トートは生まれながらのロイヤルイメージがにじみ出て
いるかのような皇帝らしい皇帝に映るのとはまた違って、私はどちらのフランツにも好意と同情を抱かずにはいられませんでした。
京本ルドルフは若さゆえの暴走と幼さが悲劇を招いたのだと熱演から伝わってきました。歌唱に癖があまりなく、音階を外れて歌うこともほぼなかったのは期待以上でした。
二度目の登板である古川ルドルフからは自らの意志で革命に身を投じ強く生きようとしたものの、どこかでボタンを掛け違えてしまい歯車が狂ったまま時代に翻弄され
最後は人生への絶望と疲弊で自ら命を絶った皇太子像が見えました。途中降ってくるハーケンクロイツの旗を足で踏みつける一幕には静かながら彼の激情が
伝わってきたものです。
そして、ずっと長きにわたりシングルで演じられていたルキーニがついに若手二人のWキャストで実現しました。私はこの変化をおおむね歓迎して観ました。
尾上ルキーニは前任者の狂言回しポジションをかなり踏襲する演技プランのようでしたが、良かったのはせりふ回しが非常に聞き取りやすかったことです。
6月下旬に難聴の母を伴い観劇した際にも聞き取りやすいと好評でした。
一方の山崎ルキーニはかなり独自色の強いルキーニでした。歌唱力は文句なしでしたが、好き嫌いが真っ二つに分かれるルキーニだと思いました。
良くも悪くも「山崎育三郎」が前面に出ているルキーニ像に私の目には映りました。
そして、今回はトリプルで臨んだ少年ルドルフはいずれもレベルが高く安心してみていられる良いキャスティングでした。個人的には松井月杜くんの
少年ルドルフが秀眉だったように見受けられました。
そして、別の日に観た井上トートは予想に反し、どちらかというと宝塚のトートに寄せてきているように私には見えました。
ミュージカル界の若きプリンスと呼ばれる彼ならば、おそらく本家ウィーン版を踏襲した王道路線で圧倒してくるかなと予想したものの、
やや違っているように私は感じました。
もちろん彼の最大の武器である歌唱力は申し分なかったですし、ウィーン版とかけ離れているというほどでもないのですが、そこかしこに宝塚の気配を感じさせる
ようなトートというべきか。非常に抽象的ですが、あえて言うなら城田トートが人間離れして見える所為かより男性的なトート(もちろんそれが間違っているとは微塵も
思いません)に見えたのです。言うなれば、人間臭さをどこかにはらむトートといった印象でした。前述のとおり、城田トートが青い炎ならば井上トートは赤い炎に
見えたのです。そして、城田トートが押したり引いたりの駆け引きをどこか楽しむかのように見える一方で、井上トートからは強いシシィへの執着と情熱をより感じました。
それゆえ赤い炎に見えたのかもしれません。
蘭乃シシィについては非常に書き方を迷うところですが…シシィの我の強さやエゴイストは存分に感じさせる芝居だったと思います。
しかし、言いにくいところですが非常に歌唱が不安定だったので(特に「私だけに」「私が躍るとき」)ちょっとはらはらする場面が多かったことは否めません。
彼女には彼女の良さもあるのでしょうし、昨年宝塚で最初で最後の観劇(「エリザベート」です)をして彼女のシシィを見たときはそれほど不安定さを感じなかったの
ですが、今回は今一つしっくりこなかったのが私の正直な感想です。蘭乃さんのファンには申し訳ないですが。
ひょっとしたら、退団後初の男女混合の舞台で男性とのデュエットなど、宝塚時代からのシフトチェンジがまだ不完全だったのかもしれませんね。
まだ若い女優さんですし、今後の頑張りに遠くから声援を送ることとしましょう。
そして、田代フランツは2010年から5年で見事に息子から父帝へと姿を変えて登場してくれました。安定した歌唱はもとより、ぴんと伸びた背筋や佇まいからも
皇帝の自負と誇り、そしてオーラがしっかりと伝わってきました。シシィへのアプローチは「溺愛しながらも自分の身分を決して逸脱しない」したがってどんどん距離は
広がるばかりなのをわかりつつも諦観の中、遠くからシシィを見守る孤独な皇帝像が悲哀を込めて演じられていたように見受けられました。
歌唱に関しては佐藤フランツと同等かもしくは佐藤フランツがやや優勢かなと思われる時もありましたが、演技で説得力のある田代フランツを見せてくれたと
思います。
古川ルドルフは前回2012年よりも少し声量が増して安心してみていられるルドルフに成長していたと思います。前回は、今年の京本ルドルフのような
若さゆえの暴走からの悲劇を演じているように見えましたが、今年は前述のような懊悩の過程が安定感を増した歌唱と演技に支えられて前回とは
異なる演技プランをもって伝えられたと思います。
二人のゾフィ―はどちらも甲乙つけがたい出来栄えでしたが、私がより冷たさを感じたのは香寿ゾフィーの方でした。彼女自身もまたハプスブルクの歴史の
歯車である矜持を持つが故の厳しさでもって容赦なく厳格な姑、祖母を演じているのに対し、どこか剣ゾフィーはシシィには厳しいものの孫のルドルフには
若干の躊躇を感じるときもありました。
ゾフィーが命尽きる前のソロで分かるように、彼女は決して息子フランツ(そしておそらく孫ルドルフも)が憎くて厳しくしてきたわけではなく、帝国を背負う
皇帝として立派たれと責任と願いをもって時には歌詞にあるように「心殺して」務めたわけです。
このソロ曲はこの作品が誕生した当初はなかった曲ですが、ゾフィーの人間像をちゃんと観る者の心に刻むためにもやはり必要な曲だと思います。
トートとシシィの「私が躍るとき」も違う意味で重要な曲だと思いますが。
ところで演出と舞台装置も今回からかなり変わりました。特に舞台装置は大きく変わり、皇帝と皇后、そしてルドルフの棺が大きく強調されて終始移動しながら舞台上に
「君臨」しました。「私だけに」のような棺の高さが活きる場面もあったので全面的に否定はできないのですが、その一方でマイヤーリンクでのルドルフの懊悩から自殺へ
移るシーンなどでは少しダンスに物足りなさを感じるときもあり、もうちょっと見直してもらえると個人的には嬉しく思います。
演出では最大の変化が小池先生も語る通り、落命前のトートとのキスがシシィ・ルドルフ共に自分から(前回まではトートから)に変更になったことでしょう。
これは彼らが能動的に死(トート)を受け入れたという解釈を導入したものと推察します。
トート、つまり死は概念であり具現化でもキャラクターとしての存在を疑問視する考え方もあるかと思いますが、私はやはりシシィやトートが身近に感じ、そして
ついに受け入れたトートという存在は彼らの潜在意識や願望から来る存在ではあるものの、やはりこの作品においては死の具現化であり象徴でもあるというのが
私の解釈です。
もちろんどのように観るかは観客各々の自由であり、正解・不正解を争うのは野暮だと思うのでなんとも言えませんが。
そして、今年の前楽では早くも来年のツアーが発表されました。
東京に始まり10月の名古屋に終わるという長丁場ですが、なるべく多く今回のキャスト陣にまた「エリザベートカンパニー」の一員として再会できればと願っています。
短くするつもりがだらだらと長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださいました方、ありがとうございました。
以上
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