昭和30年代の小学生の頃はずっとネコを飼っていて
その2つの理由は親から聞いています。
1つ目は、生まれ育ったのが商家だったためで
いわゆるゲン担ぎの"招き猫"としてかなり小さな頃から
代々「タケ」と呼ばれるネコが必ず共に生活していました。

(昭和33年頃。上方の駅から約500m)
まだ一汁一菜の頃、取り分けられた自分用の一切れの魚を
ちゃぶ台の上から一瞬のすきに奪われても、それを取り返さないと
ご飯を3膳「おかずなし」で食べなければならない"悲劇"も
今となれば昭和という時代の苦い思い出の一つです。

("くわえる"にちょうど良いこの高さ〔再現画像〕)
そうです、この頃はペットフードなどという
気の利いたものなどなく、人間の残飯を与えられていたことは
「猫飯(ねこまんま)」が残った冷や飯に味噌汁をぶっかけ
出汁が抜けた煮干し等が乗ったものを指すことからも分かります。
また残飯である以上、人様が先に食べるのですから
隙あらばと狙われるのは当然なわけで、正にサザエさんの主題歌
「お魚くわえたドラ猫~」の如くの被害を結構受けたものです。
ちなみにかろうじて奪い返せた魚は、例え土などの
汚れまみれになっていようと払い取ってちゃんと食べました。
そして2つ目はもちろん
ネズミ対策のため。
今ではほとんどお目にかからなくなっている尻尾を除いた体長が
15㎝くらいはあるドブネズミがほぼ毎晩、天井裏を駆け回っていたりし
それを篭型ネズミ獲り器で捕まえたら近くを流れる川に沈め
水死させてからその川に流すなんてことは、親に言いつけられた
お手伝いとしてとても楽しい"遊び"の一つでした。
生活雑排水は全て家の裏を流れる溝(どぶ)に流していたのですから
そこを行き来するネズミの姿などごく当たり前に目にした時代のこと
ネコはとても重要なパートナーだったことは確かです。
今でもこの目的でネコを飼う農家は現存し、事実
北隣りのKさん宅には数年前までその"担当"がいたと言います。

(同じ頃。突き当りの善光寺まで約800m地点)
捕獲すると食べる前に見せびらかすため"半殺し"のままくわえて来るので
それを褒めてやるとさらに精を出すものだと親に教わりました。
40年代になると下水道が急速に普及し、また
冷蔵庫に食品を保存できるようになったためもあってか
市街地でネズミの姿を見た記憶そのものがなくなっています。
その後自らが家庭を持つようになった頃からはダイニングキッチンが
急速に流行り出したので"ちゃぶ台の悲劇"は消え失せました。
ちなみにダイニングキッチンは
ダイニングルーム+キッチンの和製英語です。
一方で、それ以降はずっと犬を飼うようになったため
ネコの飼い方の変化を知る機会は全くありませんでしたが
テレビ等で見る限りでは「完全室内飼育」が多いのでしょう。
ただしこのシロ、今は"飼い猫"風になってはいても生来の野良ゆえ
とても「完全~」は無理と思い、60年前の昭和20~30年代当時の
飼い方とほとんど同じ"半ノラ"状態にしてあげています。
つまり当時の家庭は施錠する習慣自体がなく、また全てが
木製引き戸のためキャッチはなくネコでも爪を掛けて
開けることが出来たので基本的に家の出入りは自由でした。
同じく2階の窓も夏は"エアコンなし"のため開けっ放し
冬は暖房用練炭や炭団(タドン)等の一酸化炭素中毒防止の換気で
しょっちゅう開けるため、屋根~塀~地上とどこへでも
行けたのですから、要は単に食い物がもらえて必要なら雨風が
しのげる場所が飼われている家ということだったのかも知れません。
そこで、綺麗好きな人には土足で出入りするなどトンデモナイと
言われそうですが、そもそものボロ屋をいいことに
アルミサッシに猫穴付き木製アタッチメントを装着し出入り自由に。

エサは飽きないように様々な種類をとっかえひっかえ
常時用意してあり「いつでもどうぞ」的に、そして糞尿は
外の草の上で自由気ままなため、オシッコは数回、ウンチを
なさっている姿はまだ1度も見たことがありません。
こうした環境が今の所すっかり気に入ったらしく
"本家"には一切立ち寄ることがなくなっていると聞くにつけ
全く持って申し訳としか言いようがないのです。
ただ数日前には、2年かかって餌付けした以降ずっと世話を
し続けていたYさんのお嬢さんが「どうしても撫でたいから」と
尋ねておいでになり、1カ月振りのシロもちゃんと覚えていて
ゴロゴロとノドを鳴らして寛いでいたのを見てちょっと安堵。
これで逃げられた日には
彼女があまりに可哀そう過ぎるというものです。

(縁側の籐製イスが最近のお気に入り定位置)
いずれにしても今後の"身の振り方"は
シロ本人が決めれば良いことと申し合わせは出来ています。
(続く)