恐らく昭和19年長女が生まれた直後の写真と思われる。
以前にも書いたがもし母が一年遅く生まれていたら母は原爆で死んでいただろう。
母は広島県立女学校に通っていたが原爆が投下された日、夏休み期間中にもかかわらず
全校生徒が校庭に出ていて朝礼中に被爆し下級生と先生がた全員が原爆の犠牲者となったのだ。
一年前に卒業したお陰で母は被爆せずに助かり、姉も兄も僕も妹もこの世に生を受ける機会は
永遠に訪れなかったはずなのだ。
母は疎開先の三次で姉をおんぶして物干し竿におしめを干している最中に
原爆の爆音が背中の方から届いたそうである。
終戦の日が訪れる度にものすごい音だったと僕はいつも聞かされた。
もはや来年に母の声を聞くことは叶わない。
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以前にも書いたがもし母が一年遅く生まれていたら母は原爆で死んでいただろう。
母は広島県立女学校に通っていたが原爆が投下された日、夏休み期間中にもかかわらず
全校生徒が校庭に出ていて朝礼中に被爆し下級生と先生がた全員が原爆の犠牲者となったのだ。
一年前に卒業したお陰で母は被爆せずに助かり、姉も兄も僕も妹もこの世に生を受ける機会は
永遠に訪れなかったはずなのだ。
母は疎開先の三次で姉をおんぶして物干し竿におしめを干している最中に
原爆の爆音が背中の方から届いたそうである。
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もはや来年に母の声を聞くことは叶わない。
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