ぴろたまごの雑記帳

小さな庭の見える窓辺でつらつら書いてます
草花の写真もアップしていきます

精一杯のお見送り

2017-01-23 22:40:02 | 日記

2017-01-23

じーさまが亡くなって10日が過ぎた。

枕花とぼんぼりと盛りかごに囲まれた祭壇の写真は確かに本人だけど、
もう面会に行くこともないのかと思うと、変な気持ちだ。

正月2日には、親戚の集まりにも連れ出すことができた。
でも、10月の法事の時とは比較にならない位、飲みこめなくなっていた。

田作り2つ、まぐろのお刺身2切れ、おいなりを一口、黒豆のつぶしたの。
1日900mlと厳しい水分制限をつけられていたけどビールをせがまれ、
ほんの一口注いだら、むせながら必死で飲んでいた。
以前は毎日晩酌を楽しんでいたじーさまの、人生最後のビールになった。






その数日後、3歳上の京都のおじさんが亡くなった。
「ちょっと2日だけ来れないから」と、親戚8人と2台の車で京都へ急いだ。

おじさんの遺影がまるでじーさまとそっくりで、何度見てもドキッとした。
去年9月に会いに行った頃が一番元気だったそうで、
あの時思いきって連れていってよかったと心底思った。

危篤になる前日、なにやらボソボソとしゃべるので聞き返すと、
わしは何もかも知ってるぞ。兄貴、死んだろ?」とはっきり聞き取れた。

親戚から「おじさんが死んだことは黙っていた方がいい」と言われていたので
うやむやにしたけど、さすがじーさま、この期に及んでカンが鋭い。
「90過ぎたら生きていたってしようがない」
「看護婦はわしを病人扱いする」
「ここを出て家に帰る」とその日はいつになく疲れるまでよくしゃべっていた。

ボケていれば、自分の死期もわからないまま終わるかもしれないけど、
はっきりしていれば、いろんなことを感じて察して考えてしまうのだろう。

時々はぼんやりしていても大半はわかっているから、最後の最後まで、
与えられる酸素を痛々しいくらい、大きくしっかり吸って吐いて・・

最後にちゃんとおじさんが亡くなったこと伝えた時は「うー」と声をあげ、
孫たちが帰ってきて声をかけた時もわかっていたし、
2日半の間、何も食べず、薬も飲めず、点滴もできないのに、ただただ、
強まった酸素量をしっかり吸って吐いて、命をつないでいた。
もう頑張らんでいいよ。
でも、この精神力・忍耐力があるからここまで長生きできたんだなと思った。
 
危篤状態の2日間、じーさまの部屋で寝泊りしてほとんど徹夜状態。
みんなに囲まれて、スタッフの人たちもよくしてくれて、
最後は静かに吸って、吐いて、コトッと終わった。
40度の熱が続いていたので、いつまでもその体は熱かった。
「ああ、お疲れさまでした」と、ホント、そんな感じでした。

昔のアルバムから写真を選んでDVDを作ってもらったり、
お棺に娘の折り鶴や、家族で寄せ書きしたじーさまの似顔絵の色紙を入れて、
とても心のこもったお見送りができました。
思い出の写真とコメントが、スキマスイッチの「奏」の曲に合わせて流れ、
もう、みんな、とっても感動してくれた。

ここらの葬式は都会と違って、納棺から始まって1日仕事。
翌日は納骨とまた親戚にお昼をふるまい、「やれやれ」と思ったのもつかの間、
「今度は○○おばさんが亡くなって、明日お通夜だって!」と電話が・・!
年は皆、95歳、92歳、91歳と、長寿を全うしたから仕方ないけど、
2週間のうちに3回もお通夜と葬式のフルコースに出たのは初めて。
 
今頃、天国で皆が再会して、にぎやかだろうな・・




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