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絵じゃないかおじさんぐるーぷ
<ドン作雑文集より>
大峰山は、日本でただ一ヶ所の女人禁制の霊峰である。あちらこちらの霊峰が、次から次へと女性を受け入れている中で、かたくなに女性を拒み続けている聖地でもある。残念ながら、この大峰山という特定の山はない。狭義には、山上ヵ岳のことを指しているという。
私の住んでいる所から、バイクでゆけば、2時間とはかからないところにある。洞川は、大峰山・山上ヵ岳の麓にある小じんまりとした集落である。夏は、山登りの人であふれるのだが、温泉やスキー場があり、冬場の客枯れを防いでいるようでもある。その洞川まで行けば大峰の雪景色が見られるのではないかと思ったのだ。
軽自動車のすれ違いさえ難しい吉野の勝手神社の横の小道を通り、黒滝村に入り、河分神社を右に折れ、小南峠から隧道を経て洞川に抜ける。私の一番好きなルートである。夏場は、よく走るのであるが、雪の季節は避けていた。道路が凍結していて、スリップする危険性があるからである。
バイクにチェーンをまいたり、スノータイヤに変えて走るほど、私はバイク中毒症ではないし、必要性も感じていない。そんなわけなので、道路が凍結していれば、即、引き返すのを鉄則にしている。それでも、橋の上やトンネルの出入り口で、思わぬ凍結に苦しめられることも多い。万が一、凍結に遭うと、転倒してもいいように、スピードを極端に落として最徐行運転で抜け切ることにしている。
小南峠に入ると、予想していた通り、杉木立が小雪をかぶっていた。道の両側が白くなり、冷たい山の気は、感覚の乏しくなった顔の皮膚をさらに刺してきた。
暖かいぬるま湯のような流極楽ファミリーの家を一歩出ると、外はもう容赦の無い冷たい世界である。ヘルメットのシールドの隙間からは、押しピンのような風が頬を突き刺すし、2枚に重ねばきした靴下も防寒の役には立たない。
手足の指の先は、10分も走れば、自分の手足ではないと思うほどに、感覚マヒを起こしてしまう。痛さを通り越しさえすれば、自然は私を受け付けてくれるのだ。ヤツらは、こんなオッさんの一人や二人、好きなようにしたらエエがなとでも思っているに違いないのだ。
身のピリリと引き締まる感覚、だらけきった生活の中で、伸びたい放題に伸び切った細胞が整列する感覚、私にはこれが堪らない喜びなのだ。そうなれば、私はサヤカと一体となり自然に同化してしまう。冬場のバイク乗りの醍醐味でもある。
バイクに乗っていれば、季節により天候により、さまざまなスペースが展開されるのだ。微妙な感覚の違いは口では表現できないようなものでもある。このあたりが、妻のあゆかには伝えられない世界なのだろう。これは乗ってみなければ分からない。
人には添うてみよ、バイクには乗ってみよ、としか言いようがないのである。言いようのない世界をどんな言葉に置き変えてみても、所詮は言葉。書き連ねたところで、ダラダラと長くなるだけである。
峠を進んでゆくと、舗装のされてない道路は、湿りがちとなり、小雪の固まりが目につくようになってきた。道が黒いと安心である。これが凍結していると、白っぽく光ってくる。
私は、ヘルメットのシールドを上げ、前面に細心の注意を払いながら、徐行運転で進んでいった。凍結していれば、引き返すつもりである。吐く息が白くない。身体が冷えきってしまって、息の温度が高くないからなのだろう。
グラブの手で、頬をさすってみたが、感触はなかった。対向車など一台もない。空はどんよりとしていて、風が無いのがせめてもの救いである。しかし、風が無くてもバイクは風を呼ぶものでもある。時おり、小雪が目の玉にぶつかってくるのが痛く感じられる。
隧道まで、あと200mぐらいの所であった。
ズバーーン!
見事な雪道が連なっていた。車のわだちは見当らなかった。私は、一瞬ひるんだが、隧道を抜けると洞川までは、20分とはかからない。私は、峠の坂道をおそるおそる進んでいった。しかし、雪は浅かった。浅い雪の下は完璧なまでに凍結状態であった。私は、サヤカを止めた。ブーツがすべる。しかも、坂道である。私は、サヤカの手動ブレーキを引き締め小道の中央で立ち往生してしまった。左手は、岩コロが転がってくるような切り立った山だし、右下は崖である。道にガードレールも張られてはいない。
私は、途方にくれてしまった。時刻は午後の4時すぎであろう。私は、時計は持たない主義である。時計を持てば、どうしても時計に頼ってしまう。時計がなければ、時間を知るためにいろいろな感覚が養われてくるような気がするからである。といっても、電車の時間や正確な時刻などに対しては無力である。
私の頭の中は、引き返すことに決まっていた。しかし、サヤカをUターンさせる術が分からなかった。サヤカは、約150kgもある。おいそれとは、かつげもしない。足元はつるつると滑る。動かないのが、一番安全なのだ。道幅は、2mにも満たないようだ。日がつるべ落としのごとく沈むように感じられた。実際、太陽はどんよりと曇った空の果てに隠れていて見えないのだが、真っ暗闇の世界が、あっという間に、やって来そうなような気がした。脇の下では、冷汗がぽとりぽとりと落ちていた。
ああ、どうしよう!
回らない頭が一つのことのみ考えているから、余計回らない。焦りばかりが、襲ってくる。
その時である。白い小道の数10m先に、ふと目が走った。
ゾゾーッ!
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