私の作品で、最も撮れ高の多いカメラマンが
専門学校の講師を頼まれ、
受けるべきか受けざるべきか悩んでいる。
私に問われたので「受けたら」とあっさり回答。
人に教えるのは向き不向きがあるが、
教えてみないとわからない。
ただ教えていくらもらえるかから
スタートするのは根本的に間違っている。
教えることで業界人を増やす。
教えた若者が成長し、やがて業界を支える日が来るとき
せいぜい「私の師匠です」と言われることを夢見て
熱く教えることを本旨とすべきだ。
また教えるには、教えることの2倍以上
勉強しなければならない。
振り返りも含め、己の成長に大いに役立つ。
「もう十分やりきったでしょ!?
教える側に回って後身の育成をすべきだよ」
最後に少々無責任に言い放った。
では私は教壇に立てるのか?
無理だ。
まず教える間があれば現場にいたい。
そして教えるほど人間ができていない。
▲すべて1本足の橋脚でよさそうだが
L字型やロの字型、その変形、1本足と
多彩な橋脚。それぞれ利点があるのだ!?
例えば編集を教えるとする・・
台本ありきで撮影はするが、
その台本通りに編集すると100%行き詰まる。
私はまず取材して一番面白かった部分を編集してみる。
当然の事ながら膨らみすぎるので削っていく。
削った部分は他の取材分で補ったり、
ナレーションで補うこともできる。
まずは心柱を立てるための試行錯誤。
そうこう試行錯誤するうちに
「あっ、これや」という心柱が見つかる。
「これや」が見つかれば
そこから枝葉が形成され見事に完成する。
遠回りのようだが私はこの試行錯誤を大切にしている。
編集時間の半分はこの心柱を見つけるために費やされる。
私の編集したものはわかりやすいと評されるのは
この試行錯誤にあると思っている。
しかし、これを教えることができない。
曲がり道に寄り道は、
今の若者には無駄に写るのかもしれない。
「編集したんですが見てください」と頼まれると
喜んで助言するが、我ながら細かな点まで
修正指示をしてしまう。
一つでも適当にハショると全体がバラバラになる。
特に自分が本を書いて編集を若手に任せると
1回目の修正指示だけで3時間は有してしまう。
主な修正は「間」。
これも教えにくい。
「間が悪い」
では伝わらないので、「1秒あける」「3秒あける」と
具体的に指示をだすが、「1秒と3秒の間の違いは?」
と問われると「気分!」。
これではわからないよなと思うが説明しにくい。
しかたないので、1秒とか2秒の間を指示する。
すると「1秒と2秒の違いは?」とくる。
さらにBGMや効果音が乗ってくると
1秒が5秒になることもままある。
こうなると、論理的説明はできない。気分だ。
さらに修正したものに修正をだし、
さらに修正したものに修正をだす。
たいてい4~5回は修正依頼してようやく完成となる。
ハッキリ言って自分でやる方が早い。
ならば「自分でやれよ」となるのだが、
若手の編集にも「なるほど」と唸る箇所がある!
必ずあるから楽しい。
私と彼のセンスが相乗効果になり作品に厚みが増す。
これは監督と役者、カメラマンや照明マン、
あるいは録音部やナレーターとの関係でも同じことがいえる。
映像が総合芸術だと言われる所以だ。
これを教えるのは至難の技だ。
▲教え方で馬場になったり猪木になったり。
いずれも世界チャンプだが味が違う・・・
かって私が勤めて初めてついた先輩から
台本の綴じ方にクレームがついた。
「右肩に止めるか、左肩に止めるか、
左綴じにするかを考えて綴じろ」
「全てのページがきちんと揃って綴じられているか確認せよ」
という。
私にすれば「綴じられてたらいいじゃん。
早く準備を終える方が他の作業ができる」
と酒を呑みつつ同僚に愚痴ったものだが、
監督業や社長業につくと、
「形にする前に、まず考えること」
これこそが基本だと思う。
台本の閉じ方にも考えることが求められたのだと
いまにして思う。先輩とはいいものだ。
簡単に言えば、
型破りは型をマスターした人だけができることであり
型をマスターしてない人がやるのをハチャメチャという。
なんと因果な商売だ?
酒も呑まず語るのは私には無理なので、
後進の指導は彼に任すことにしよう。ヨロシコ。
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