エルミタ
エルミタはフィリピンのマニラにある地区。市の中心部に位置するこの地区は、金融、教育、文化、商業の重要な中心地であった。エルミタは市の行政の中心地として機能し、市政府と、この地域の雇用、ビジネス、娯楽活動の大部分がここにあった。
エルミタには民間および政府機関のオフィス、博物館、大学が集まっている。また、フィリピンの最高の国立公園であるリサール公園など、有名な観光名所やランドマークもここにある。
もともと、エルミタとその隣のマラテ地区は、20世紀初頭、マニラの上流社会の高級住宅街で、かつては大きくて豪華な邸宅が建っていた。マニラ大虐殺の戦場となった後、エルミタとその周辺は第二次世界大戦中に激しい爆撃を受け、破壊された。戦後、エルミタとその姉妹地区であるマラテ地区は商業化され、広大な高級住宅街から商業地区へと変化した。
ルソン王国
エルミタの町は、もともとタガログ語でラギョと呼ばれ、マニラのすぐ近くにあった。
スペイン統治(1570年~1898年)
スペイン統治時代の1582年、この町はミゲル・デ・ロアルカによって次のように記録された。
マニラ近郊の海岸には、ラグオ、マラハット、ロンガロ、パラニャック、ヴァコル、ミナカヤ、カビテがある。これらの集落はすべてカビテ近郊にあり、陛下の所有物であり、陛下に貢物を納めていた。
ミゲル・デ・ロアルカ、Relacion de Yslas Filipinas (1582)
ラジョは、17世紀に、メキシコの隠者がこの地域に住み、この場所にヌエストラ・セニョーラ・デ・ギア(導きの聖母)として知られる聖母マリアの像を収めた庵が建てられたことにちなんで、スペイン語で「庵」を意味するラ・エルミタと改名された。この隠者司祭の名前はフアン・フェルナンデス・デ・レオンで、マニラに移住する前はメキシコで隠者だった。
その後、庵はエルミタ教会へと発展し、17世紀初頭から何度か再建された。
現在のインドネシアにあるテルナテ島からのスペイン人の撤退の際、キリスト教化されたテルナテ島スルタン国を統治し、改宗したスルタンを含むメキシコ、フィリピン、スペイン、パプア、インドネシア、ポルトガルの混血の200家族が、テルナテ島、カビテ島、マニラのエルミタに移住させられた。
19 世紀までには、依然として「アラバル 」 (農村地帯を指す) と見なされていたものの、マニラ湾沿岸の遊歩道としてルネタ(バグンバヤンとも呼ばれる) が開発されたことにより、都市の拡大が徐々に地区の北部にまで及んでいた。また、1890 年代初頭にはフェデリコ・ファウラ神父によるマニラ天文台の建設も行われ、かつてはファウラ神父にちなんで改名された通りに面していた。その後、エルミタではスペイン語に基づくエルミテーニョと呼ばれるクレオール語が発達したが、第二次世界大戦の荒廃により最終的に消滅した。ただし、近隣のカビテではいとこ言語が今も話されている。
アメリカと連邦時代 (1900–1944)
エルミタはアメリカ連邦時代に再び注目を集めるようになった。1900年代初頭の美しい都市運動に影響を受けたダニエル・バーナムのマニラ計画の一環として、エルミタはイントラムロス周辺地域とともに郊外から市街地へと劇的な再開発を受けた。1901年、マニラ市の認可により、エルミタの境界が壁で囲まれたイントラムロスの外にまで拡張され、マニラ市に吸収された。
マニラのバーナム計画、1905年
バーナムは、この地区、特に北部をフィリピン政府の中心地として、ワシントンDCのナショナル・モールを模した壮大な公園にルネタを再開発することを構想した。立法府、行政府、司法府を収容する政府庁舎もこの地区に設置される予定だった。フィリピンの首都をルネタ公園の東端に建設する計画もあったが、実現には至らなかった。
また、大学地区としても知られ、フィリピン師範大学、フィリピン大学、アテネオ・デ・マニラ、アダムソン大学、アサンプション大学、セントポール大学のキャンパスや寮があった。エルミタの住宅地区にはアメリカ人居住者が住み、陸軍・海軍クラブや大学クラブなどの施設が設立された。
大学やレジャークラブのほか、マニラ湾に面したエルミタ地区とその隣のマラテ地区は、かつてはマニラの上流社会の拠点であり、金色に輝く大きな邸宅が立ち並んでいた。マニラの最も裕福な家族は、この郊外地区に住んでいた。
他に建設された注目すべき建造物としては、コンサルタント建築家のエドガー・K・ボーンが設計したインシュラー製氷工場がある。ボーンは 1902 年にフィリピン委員会の下で建築局長も務めた
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