タウバ(悔悟・改悛)=後悔、後悔=タウバ。
タウバを真剣にしようとした者の、タウバ後の状態とその前の状態は相違する。
ではアッラーに対面した心の状態とは?
サハル・アッタストリーがジュナイドに質問をした:
「タウバ成就のしるしとは、罪を覚えておくことでしょうか。」
「いや、罪を忘れることが、タウバ成就のしるしだ。」
どのように?
まじめにタウバしアッラーに帰る者には、後悔で満ちた長い時間が訪れる。
またアッラーの御前に立つことへの恐れに襲われるが、
努力してアッラーへの道を行けば、そうすることでズィクルの甘美さやターア(服従)の
素晴らしさといったアッラーの恩恵が、
罪の苦しさを追放してくれる。
タウバのニーヤで捧げた2ラクアの後に、しっかりとタウバすることは、
新しい1pが開かれることだ。
ガザーリー師は質問されて次のように言った:
「タウバが成立したら、果たしてそれは確実に嘉納されるのでしょうか。」
「アッラーは御自身に課したこと以外のことを課されることはないが、
しもべが真心込めてタウバした場合、アッラーはそれを嘉納し給わずにはいられない。
どのような場合であってもだ。」
罪には大小あるが、その中で最も大きいのは、自分の罪をアッラーの御赦しよりも
大きいと捉えてしまうこと。
この思考こそが大問題である。
タウバ終了後の次のステップは、
心と対面すること。
なぜ心となのか?
預言者(平安と祝福あれ)の誓いを思い出してみよう。
彼は、強く激しく誓われるとき、次のように言われていた:
「心と視線を変え給う御方に誓って」
アッラーは私たちの心を最も注目する場所にし給うた。
かれは私たちの外見ではなく、心と行為を御覧である。
アッラーは心をかれが注目する場所とし給うたのだ。
しかし人間が注目する部分は外見であるため、人間は外面にとても気を遣う。
ただ、他人への敬意のために、私たちが外見を美しくすることは大切だ。
では人々の主、アッラーはどこを見給うのか?
あなたのどこを御覧なのか?
心だ。
القلب في علم السلوك هو اللطيفة الرحمنية التي وضعها الله للإنسان
これで人間と他の被造物が区別される。
إِنَّا عَرَضْنَا الْأَمَانَةَ عَلَى السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَالْجِبَالِ فَأَبَيْنَ أَن يَحْمِلْنَهَا وَأَشْفَقْنَ مِنْهَا وَحَمَلَهَا الْإِنسَانُ ۖ إِنَّهُ كَانَ ظَلُومًا جَهُولًا
本当にわれは,諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを,担うことを辞退し,且つそれに就いて恐れた。人間はそれを担った。本当に(人間は)不義でありかつ無知である。(33/72)
ここで言われているアマーナ(信託)がここで言っている「心」のこと。
心は重要な二つを含む:
①イドラーク(理解)②イラーダ(意志)
あなたが友人に会って会話を楽しみ、そのうち喧嘩してしまい、相手に襲いかかろうとするとき。
この瞬間、どのようなイドラークが起こっているか。
「怒り」「自我の勝利の渇望」「復讐」
これらに囲まれてしまっている。
あなたが相手を叩こうとしたり、醜い言葉を発するとき、何があなたにそうさせているのか?
心に生まれたイラーダである。
当初の落ち着いた気持ちをこのようにさせたのはイドラーク。
けんかをしたことがきっかけ。
喧嘩が始まって、「アッラーは忍耐を好み給う」「預言者(平安と祝福あれ)は自分のために怒ったことはなかった」と思いだすこと。
このカラール(決定)は最終的にあなたを喧嘩から遠ざける。
何からそれは生まれるか?
心からだ。
心は洞察し、決定を下す場所である。
ある話:
ある金持ちの貿易商が代理人を立ててモスクを必要とする者たちのために建てようとした。
建立のために代理人は走り回り、町の人々はこの代理人がモスクを建ててくれているのだと思い込んだ。
それを知った代理人は貿易商に赴き、「あなたにとって不公平な状態になっています。人々は私がモスクを建てたと思いこんでいますので、全員を集めて、本当のことを伝えようと思っています。」と言った。
貿易商は、「いや、そんなことしなくともよい。」なぜ?と聞かれて、「誰のために建てたモスクかは、その御方が最も御存知だから。」と言った。
一体どこから彼のカラールとイラーダが来たのか?
「心による洞察の理解」である。
この心構えこそが、アッラーを求める者がそれによってアッラーに近づくもの。
「本当に盲人となったのは,かれらの視覚ではなく,寧ろ胸の中の心なのである。」(22/46)
至高なるアッラーは、ハディース・クドゥスィーで次のように仰せになった:
「わたしの友がらに敵意を示すものには、わたしは誰に対しても戦いの宣言をする。
わたしの気に入ることをしてわたしに近づこうと望むしもべは、
自分に課された宗教的義務をきちんと果たすにしくはない。
定められた義務以外のよい行いに努めるしもべは、
ますますわたしに近づき、遂にはわたしの愛をかちうるであろう。
そしてわたしが彼を愛するようになれば、わたしは彼の聞く耳、
彼の見る目、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。…」
このハディースから、人はアッラーによって見たり聞いたりするということ。
この心のイドラークに偉大さについてが今回のテーマ。
心がこのようになるためには、もちろん作業が必要。
この作業こそが、スルーク(求道)だ。
つまり、アッラーを求める道。
心に第一に必要なのは:
心に汚れを入れてしまう穴を塞ぐこと。
例えてみよう。ある部屋のたくさんの窓がすべて全開だ。そこに砂嵐が吹いたらどうなるだろうか?
きっと部屋は砂でいっぱいになってしまうだろう。
あなたが強力な掃除機を何台使って掃除をしても、
窓が開いたままでは砂が入り続け、意味がない。
あなたの心もこの部屋と一緒。
心はさまざまな病気にかかる。
妬み、見栄、高慢、地位追求など。
それらの病気の治療の前に、まず「窓の管理」が必要だ。
心に闇を入らせる穴は2種ある。
①五感的穴(視覚、聴覚、発声)②精神的穴
①見るものは直接心に影響し、それは保存される。暗い闇的なものを見たら、それは心に植え付けられてしまう。
反対に明るいものを見たら、そのままそれが心に植え付けられる。どちらでもないもの(木や家など)を見たら、
どの角度でそれを見たかで決まる。これらが目の心への影響。→禁じられた視線第一種
目は心に影響を与える。
禁じられた視線は呪われた悪魔が放つ弓の一つ。
アッラーをおそれてそれを避ける者の心にアッラーは甘美を与え給うだろう。
禁じられた視線第二種:
現世を重要視すること。アッラーが創造し給うたものを美しいと思って見ることを指しているのではない。
禁じられるのは、現世自体を偉大なものとして見てしまうこと。
大きなタワーを見てとても感心するようなもの。
禁じられた視線第三種:
アッラーの被造物を見下すこと。
自分よりも貧しい者を見下したりせぬよう。
あなたはアッラーを求める者なのだからしてはいけない。
あなたがその者よりお金や知識や血統を持っていようとも、
来世では必ずそれらについての清算を受けるのだから。
アブー・ラハブは優れた血筋の生まれだったが、それは彼の何の役にも立たなかった。
では何が人々の優越を決めるのか?
服従行為だろうか?
いや、ちがう。
また、罪人を見下してはいけない。
この視線は心に悪く影響するし、また禁じられている。
これは心を真っ暗闇にする。
ある熱心なユダヤ人信者の話:
500年もの間、一度もアッラーに背いたことがなかった男が、同じ民の中のアッラーに一度も従ったことがない男を見た。
両者が向かい合った瞬間、両人とも背を向けてしまった。
前者は後者に対する高慢さから彼に背を向けたわけだが、
アッラーは自分が他に優っていると思う者を決して赦し給わない。
逆に後者は、アッラーに対して恥いる気持ちを持ったため、信者に背を向けたのだ。
「私はどうやってこのお方に顔を向けたらいいんだ」と思ったのだ。
前者の信者は、崇拝行為の多さゆえ、彼が行くところには雲が付いてきて影を作るというカラーマを賜った人だった。
両者が分かれた瞬間から、もう雲は信者に付いて行かなくなった。
何が原因かというと、蔑視したからだ。
罪自体を蔑視してもよいが、罪人を蔑視してはいけない。
不信を蔑視しても、不信仰者を蔑視してはいけない。
以上、禁じられた視線3種:
①欲望に基づく視線②現世を偉大視する視線③被造物への蔑視
これらを捨て、心が輝くための視線を持つこと。
つまり、見ることが許されているものを、至高を持って眺めること。
愛情の目で、両親や学者を見ること。
罪人を同情の目で見ること。
信心深い人を尊敬の目で見ること。
以上は、心が光り輝く原因となる視線だ。
目は貴重なのだ。
なぜか?
なぜなら目はアッラーの後尊顔を見るために作られたからだ。
続く。
タウバを真剣にしようとした者の、タウバ後の状態とその前の状態は相違する。
ではアッラーに対面した心の状態とは?
サハル・アッタストリーがジュナイドに質問をした:
「タウバ成就のしるしとは、罪を覚えておくことでしょうか。」
「いや、罪を忘れることが、タウバ成就のしるしだ。」
どのように?
まじめにタウバしアッラーに帰る者には、後悔で満ちた長い時間が訪れる。
またアッラーの御前に立つことへの恐れに襲われるが、
努力してアッラーへの道を行けば、そうすることでズィクルの甘美さやターア(服従)の
素晴らしさといったアッラーの恩恵が、
罪の苦しさを追放してくれる。
タウバのニーヤで捧げた2ラクアの後に、しっかりとタウバすることは、
新しい1pが開かれることだ。
ガザーリー師は質問されて次のように言った:
「タウバが成立したら、果たしてそれは確実に嘉納されるのでしょうか。」
「アッラーは御自身に課したこと以外のことを課されることはないが、
しもべが真心込めてタウバした場合、アッラーはそれを嘉納し給わずにはいられない。
どのような場合であってもだ。」
罪には大小あるが、その中で最も大きいのは、自分の罪をアッラーの御赦しよりも
大きいと捉えてしまうこと。
この思考こそが大問題である。
タウバ終了後の次のステップは、
心と対面すること。
なぜ心となのか?
預言者(平安と祝福あれ)の誓いを思い出してみよう。
彼は、強く激しく誓われるとき、次のように言われていた:
「心と視線を変え給う御方に誓って」
アッラーは私たちの心を最も注目する場所にし給うた。
かれは私たちの外見ではなく、心と行為を御覧である。
アッラーは心をかれが注目する場所とし給うたのだ。
しかし人間が注目する部分は外見であるため、人間は外面にとても気を遣う。
ただ、他人への敬意のために、私たちが外見を美しくすることは大切だ。
では人々の主、アッラーはどこを見給うのか?
あなたのどこを御覧なのか?
心だ。
القلب في علم السلوك هو اللطيفة الرحمنية التي وضعها الله للإنسان
これで人間と他の被造物が区別される。
إِنَّا عَرَضْنَا الْأَمَانَةَ عَلَى السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَالْجِبَالِ فَأَبَيْنَ أَن يَحْمِلْنَهَا وَأَشْفَقْنَ مِنْهَا وَحَمَلَهَا الْإِنسَانُ ۖ إِنَّهُ كَانَ ظَلُومًا جَهُولًا
本当にわれは,諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを,担うことを辞退し,且つそれに就いて恐れた。人間はそれを担った。本当に(人間は)不義でありかつ無知である。(33/72)
ここで言われているアマーナ(信託)がここで言っている「心」のこと。
心は重要な二つを含む:
①イドラーク(理解)②イラーダ(意志)
あなたが友人に会って会話を楽しみ、そのうち喧嘩してしまい、相手に襲いかかろうとするとき。
この瞬間、どのようなイドラークが起こっているか。
「怒り」「自我の勝利の渇望」「復讐」
これらに囲まれてしまっている。
あなたが相手を叩こうとしたり、醜い言葉を発するとき、何があなたにそうさせているのか?
心に生まれたイラーダである。
当初の落ち着いた気持ちをこのようにさせたのはイドラーク。
けんかをしたことがきっかけ。
喧嘩が始まって、「アッラーは忍耐を好み給う」「預言者(平安と祝福あれ)は自分のために怒ったことはなかった」と思いだすこと。
このカラール(決定)は最終的にあなたを喧嘩から遠ざける。
何からそれは生まれるか?
心からだ。
心は洞察し、決定を下す場所である。
ある話:
ある金持ちの貿易商が代理人を立ててモスクを必要とする者たちのために建てようとした。
建立のために代理人は走り回り、町の人々はこの代理人がモスクを建ててくれているのだと思い込んだ。
それを知った代理人は貿易商に赴き、「あなたにとって不公平な状態になっています。人々は私がモスクを建てたと思いこんでいますので、全員を集めて、本当のことを伝えようと思っています。」と言った。
貿易商は、「いや、そんなことしなくともよい。」なぜ?と聞かれて、「誰のために建てたモスクかは、その御方が最も御存知だから。」と言った。
一体どこから彼のカラールとイラーダが来たのか?
「心による洞察の理解」である。
この心構えこそが、アッラーを求める者がそれによってアッラーに近づくもの。
「本当に盲人となったのは,かれらの視覚ではなく,寧ろ胸の中の心なのである。」(22/46)
至高なるアッラーは、ハディース・クドゥスィーで次のように仰せになった:
「わたしの友がらに敵意を示すものには、わたしは誰に対しても戦いの宣言をする。
わたしの気に入ることをしてわたしに近づこうと望むしもべは、
自分に課された宗教的義務をきちんと果たすにしくはない。
定められた義務以外のよい行いに努めるしもべは、
ますますわたしに近づき、遂にはわたしの愛をかちうるであろう。
そしてわたしが彼を愛するようになれば、わたしは彼の聞く耳、
彼の見る目、彼の打つ手、彼の歩く足となろう。…」
このハディースから、人はアッラーによって見たり聞いたりするということ。
この心のイドラークに偉大さについてが今回のテーマ。
心がこのようになるためには、もちろん作業が必要。
この作業こそが、スルーク(求道)だ。
つまり、アッラーを求める道。
心に第一に必要なのは:
心に汚れを入れてしまう穴を塞ぐこと。
例えてみよう。ある部屋のたくさんの窓がすべて全開だ。そこに砂嵐が吹いたらどうなるだろうか?
きっと部屋は砂でいっぱいになってしまうだろう。
あなたが強力な掃除機を何台使って掃除をしても、
窓が開いたままでは砂が入り続け、意味がない。
あなたの心もこの部屋と一緒。
心はさまざまな病気にかかる。
妬み、見栄、高慢、地位追求など。
それらの病気の治療の前に、まず「窓の管理」が必要だ。
心に闇を入らせる穴は2種ある。
①五感的穴(視覚、聴覚、発声)②精神的穴
①見るものは直接心に影響し、それは保存される。暗い闇的なものを見たら、それは心に植え付けられてしまう。
反対に明るいものを見たら、そのままそれが心に植え付けられる。どちらでもないもの(木や家など)を見たら、
どの角度でそれを見たかで決まる。これらが目の心への影響。→禁じられた視線第一種
目は心に影響を与える。
禁じられた視線は呪われた悪魔が放つ弓の一つ。
アッラーをおそれてそれを避ける者の心にアッラーは甘美を与え給うだろう。
禁じられた視線第二種:
現世を重要視すること。アッラーが創造し給うたものを美しいと思って見ることを指しているのではない。
禁じられるのは、現世自体を偉大なものとして見てしまうこと。
大きなタワーを見てとても感心するようなもの。
禁じられた視線第三種:
アッラーの被造物を見下すこと。
自分よりも貧しい者を見下したりせぬよう。
あなたはアッラーを求める者なのだからしてはいけない。
あなたがその者よりお金や知識や血統を持っていようとも、
来世では必ずそれらについての清算を受けるのだから。
アブー・ラハブは優れた血筋の生まれだったが、それは彼の何の役にも立たなかった。
では何が人々の優越を決めるのか?
服従行為だろうか?
いや、ちがう。
また、罪人を見下してはいけない。
この視線は心に悪く影響するし、また禁じられている。
これは心を真っ暗闇にする。
ある熱心なユダヤ人信者の話:
500年もの間、一度もアッラーに背いたことがなかった男が、同じ民の中のアッラーに一度も従ったことがない男を見た。
両者が向かい合った瞬間、両人とも背を向けてしまった。
前者は後者に対する高慢さから彼に背を向けたわけだが、
アッラーは自分が他に優っていると思う者を決して赦し給わない。
逆に後者は、アッラーに対して恥いる気持ちを持ったため、信者に背を向けたのだ。
「私はどうやってこのお方に顔を向けたらいいんだ」と思ったのだ。
前者の信者は、崇拝行為の多さゆえ、彼が行くところには雲が付いてきて影を作るというカラーマを賜った人だった。
両者が分かれた瞬間から、もう雲は信者に付いて行かなくなった。
何が原因かというと、蔑視したからだ。
罪自体を蔑視してもよいが、罪人を蔑視してはいけない。
不信を蔑視しても、不信仰者を蔑視してはいけない。
以上、禁じられた視線3種:
①欲望に基づく視線②現世を偉大視する視線③被造物への蔑視
これらを捨て、心が輝くための視線を持つこと。
つまり、見ることが許されているものを、至高を持って眺めること。
愛情の目で、両親や学者を見ること。
罪人を同情の目で見ること。
信心深い人を尊敬の目で見ること。
以上は、心が光り輝く原因となる視線だ。
目は貴重なのだ。
なぜか?
なぜなら目はアッラーの後尊顔を見るために作られたからだ。
続く。
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