菊江佛壇(下)
【主な登場人物】
若旦那 親旦那 番頭 菊江(芸妓) 店の皆さん
【事の成り行き】その119「菊江佛壇(上)」からのつづき
* * * * *
●おい、ちょっと皆、ちょっと聞ぃてくれ。あの、今日は早じまいっちゅう
ことなったんや。いやいや、番頭の言ぅことよりわたしの言ぅことを聞きな
はれ、今日は早じまい。で、銘々好きなものを取り寄して、ここで一杯呑ん
でワ~ッと騒ごちゅうことになったんやさかいな、早いこと店片付けてしま
え。
何や分からんけどね、悪い話やおまへんさかいなぁ、バタバタバタバタバタ……
★若旦那が「店片付け」て、どぉいぅことになりまんねや?
●さぁさぁ、お膳を出しお膳を、ズ~ッと並べんねで。それからな、徳利やとか盃やとか、
ぎょ~さん出して来い、ぎょ~さん出して来い。で、燗してドンドン、酒も
段取りあんじょ~やっときや。それから今から好きなもん言ぅねん、みんな
銘々好きなもん。わしゃ控えていくよってな「みんなこれで食べぇ、これで
呑めぇ」や、そんなんちゃうで。番頭、お前から言ぃ。
▲わたしゃ、もぉ何でも結構で
●おまはんが言わなんだら、誰も言われへん
やないかいな。言ぃいな、好きなもんあるんねやろ?
▲さいでやすか……、
ほな厚かましやすけど、夏場のこってございますよって、何かこぉ洗いか水
貝てなもん●贅沢なもん知ってんねやないか。ほな、何か白身の魚の洗いと、
水貝。結構やけっこぉや。
●源助、おまはん何?
★わたい、ほんだら蓮根の天ぷらお願いいたしますわ
●蓮根の天ぷら? ケッタイなもんが好きやなぁ、エビの天ぷら嫌いかえ?
★エビはあんた、口の中がクシャクシャしまっしゃろがな
●安もんしか食わへんさかいやお前、車エビ食べてみ、うまいでおい。車エビと蓮根の天ぷら
か、なるほどな。
●おい徳造、お前は?
★鯛の塩焼きをお願いいたします
●本膳やなぁおい、鯛の塩焼き? モッチャリしたもん言ぃよるなぁ。まぁまぁ見た目は立派で
えぇけどなぁ。ほな次は? おまはんは?
★餡巻きをお願いいたします
●餡巻き? あぁ、お前甘党やったなぁおい。せやけどお前、お膳の上へ餡巻き
乗せて座ってられへんでこんなもん。ちぃ~と、せや、栗のキントンにしと
き、食べたことないかい栗のキントン? うまいで。ほなこれ、五人前ぐら
い取ったるさかいな、こんだけあったらえぇやろ。栗のキントンと……
●おまはんは?
★ほなわたしは、鰻の蒲焼きでも
●夏場、結構けっこぉ、鰻の蒲焼か、なるほどなぁ。鰻の蒲焼きと……。芳造、お前は?
★鮪(まぐろ)の付け焼きをな
●えげつないもん食ぅんやなぁ、ハツの付け焼き? 脂でア
ブラで、そんなもん食われへんで……
●お清、お前は?
■ほな、鱧(はも)の落としでも
●おぉ、女ごが一番洒落たこと言ぅやないか、こらオモロイなぁ。一番粋(すい)なこと言ぃよったなぁ、
お清が鱧の落とし、梅肉かい? ほぉほぉワサビ醤油で? なかなか大した
もんやなぁお前。
●おもと、お前も遠慮せんでえぇ、遠慮せんでもえぇんや女ごしやかて言ぅ
たらえぇんや、欲しぃもん何でも言ぃなはれ
★ほんなら、あのぉ~、箪笥と
鏡台と針刺し
●嫁入りするねやないねやでおい、箪笥や鏡台ちゅうやつがあ
るかい、違うがなちょっとした食べるもんで、好きなもんを言ぃちゅうてん
ねや
★ほな、コンニャクのおでん
●いっぺんに下落しよったなぁ……
●次は何や次は? ナマブシの炒り付け、それからトビウオの塩焼き、あん
まりえぇもん食わんなぁみんな。お前は?
★海布(めぇ)と油揚げ(あぶらげ)を
●葬礼(そぉれん)やがな、メェとアブラゲてなもんが出て来やがったなぁ。
●あのな、まだ何人か抜けてるし、丁稚連中まだや、済まんけどおまはんな、
ズ~ッと聞ぃて銘々書いて、注文に行く先が一軒やないで、いろいろやさか
いな。料理屋、仕出屋行かなんのんと、それから煮売屋の方がえぇのんとそ
れぞれあるさかい、てんで手分けして。
●それから藤七っとん、ちょっと……
★へッ
●こら、おまはんやないとあかん……、
あのな、北の新地の、曽根崎の真ん中へんに「大滝(だいたき)」っ
ちゅう御茶屋があるねん、聞きゃじき分かる。そこでな、この手紙……、こ
れを渡して、菊江っちゅう女ごや「化粧も、衣装も、髪も、なんにも要らん、
そのままでえぇさかいちょっとでも早よ来てくれ」っちゅうて、えぇか。
●ほで、駕籠で裏から回って、で、裏の木戸から駕籠のまま庭入れるねんで、
えぇな。これ、駕籠屋にやる祝儀や、半分やって半分おまはんの懐入れとき
★へっ、さいでやすか、ほなちょっと……、心得とります。
ちょっと気の利いたやつに走らせます。
●さぁ、みなドンドン酒運び、酒。おぉ、済まんなぁ、そんなとこへ座った
んが因果やと諦めてな、お清とおもととお滝も燗番手伝(てっと)ぉて、いず
れまた丁稚連中に代わらすよってにな。さぁさぁ、とりあえず漬けもんでも
ザクザクッと切ってもっといで、当座のアテや。さぁいこ、さぁさぁ、さぁ
いこ。
▲若旦さん、あんさんから
●まぁまぁまぁ……
▲さいでやすか、でわ、頂戴
をいたしますが、わたしこんなお店で昼の日なかからお酒をいただくやなん
て、お正月以外にこんなことあれしまへん、頂戴をいたしますです……。昼
酒といぅのはよぉ回るちゅうこと聞ぃとりますねん
●まぁまぁまぁ
▲そないいただいたら、わたしポ~ッとじきに顔へ出ます。
●出たらえぇねやないかいな、さぁみんなもぉ、勝手に盃選んでドンドンや
りや。
* * * * *
えらいことになりましたが……。キタの菊江さん、若旦那からの手紙やっ
ちゅうんで広げて見ますといぅと、見覚えのある筆跡やさかい疑いはいたし
ませんが「衣装も要らん、化粧も要らん、髪もそのままでえぇ、ちょっとで
も早よぉ来て欲しぃ」と書いてある。
「何事か知らん?」と思いながら、まぁ常着でございますが、白の帷子(か
たびら)麻ですなぁ、それに草色の薄い一重帯を締めまして、
スカ~ッとした格好ですが、もちろんお座敷着ではございません。
駕籠に乗ります……。
明治になりましても、この色街だけは駕籠があったんでございますなぁ。
だいぶ長いことあったそぉでございまして、東京も今でもあるんですかなぁ、
花柳界に人力車が走っとりましてね、学生アルバイトなんかが走ってます。
あれはその、島田の大きな髪を結いますといぅと、タクシー、車では上へつ
かえますので、人力車の方が具合がえぇっちゅうてな、何台か走っとぉりま
したが。
まぁ、駕籠が明治時代でも色街だけはあったんでございます。それに乗り
まして蜆(しじみ)橋を渡ります。大江橋、淀屋橋、橋を三つ渡る。浮世小路
(うきよしょ~じ)を東へ曲がると、そこで提灯の火を消しまして……
★駕籠屋はん、その木戸やその木戸や。いや、止めんねやない、駕籠のまま
ズッと入ってズッと。庭石気ぃ付けとくなはれや……
▼へッ、このへんでよろしますか?
★そのへんでえぇ
▼おい相棒、じっくり下ろせよ。へい、どぉぞお出ましを……
◆ここは? あの、どちらはんだんのん?
★若旦那のおうちでございますねん
◆若旦那のおうち! かめしまへん?
★かめしまへん大丈夫、ご心配要りまへん。どぉぞ、どぉぞお通りを……
奥庭から中庭、仏間、中の間と通りまして、広いところへ出てまいります
と、煌々と明かりがついて燭台が並んどります。左右にお膳をずら~っと並
べて、その上に皆けったいな色んなもん乗せましてな、一同が並んでます。
◆まぁ、こんなところへ、大勢さん居はります……
●おぉ菊江、待ってたんや。こっちおいで、こっちおいで
◆「そのままで来てくれ」言われたんで、このまま来ましたけど、こんな晴れがましぃところへ。
ちょっとお化粧と髪の毛だけ……
●何を言ぅてんねん、気ぃ遣うやつ一人も居れへん、皆うちの
店のもんばっかり、これ皆うちの店のもんや。
◆まぁ、お店のお方でございますかいな、ご挨拶もせんと勝手なおしゃべり
をいたしまして申し訳ございません。わたくし北の……
●挨拶なんかせぇで
もえぇ、こっちおいでっ。これが番頭や、この番頭のお陰で、粋な番頭の計
らいで家でお前と会えることができたんや
◆まぁまぁ、ご番頭さんでござい
ますかいな、いっつもご迷惑ばっかりお掛けいたしとぉります。わたくし、
北の新地の菊江と申します。
▲いえ、お名前は伺ごぉとります。キタの菊江はんといぅたら立派な芸妓は
んやちゅうことは、わたしゃ聞ぃとります。なるほどなぁ、やっぱりキタの
お方はどことなし粋なところがございますなぁ。わたしら、キタなんか柄に
合やいたしまへんけれどもな、また若旦那のお供でいっぺん寄せていただき
たいと。あぁ、さいでございますか、こら恐れ入ります。へぇへぇ……
▲まぁ~お酌の仕手で味がこないに違うもんでございますかいな。ありがと
さんで、こっちからも、まぁまぁ……、おっと、こら気ぃ付きませぇで。わ
たいらの酌より若旦那の酌で、要らん手ぇ出しまして済まんこって。今日も
若旦那に一番痛いとこをキュッと押さえられたもんでやっさかい、もぉコト~
ンと極楽往生安楽国サッパリわや。へっ、へっ、へっ、へっ……
番頭、太鼓持ちになっとります。
●おいおい、皆こっちばっかり見て、盃の手ぇが止まってしもたら何にもな
らへんやないか、ドンドン呑みぃな、ドンドン呑みぃな……。おい佐助、やっ
てるか佐助
★佐助、いただいております
●あぁ、いただいてるか。いや結構
けっこぉ、今日は過ごしや、過ごしたらえぇねん
★いただいとぉります、佐助……。若旦那、せやけどあんた偉い。若いけど、偉いなぁ……、若いもん
こないして集めて、ごっつぉ並べて酒呑まそやなんて、立派なもんじゃわい。
★に、人間何だっせ、か、か、堅いばっかりではあかん、うん。やっぱり、
使うときゃ使わなあかんねん。極道する時はう~んと極道して、その代わり
いざといぅ時には、また、極道せなあかんねん……。若旦那、わしら何だっ
せ。佐助、ご当家へ初めて寄してもぉた時は、あんさんまだ四つでやしたで。
溝またげてションベンしてなはったんや。
★あんさん悪さな子ぉやったで。言ぅことなんかなかなか聞きなはらん。ム
カムカしてきてな、蔵の横手へ連れて行て、拳骨でボ~ンとやったら「うぇ~
ん」いぅて泣きゃがった……
●おい、そんなことしたんかお前? 何をすんねん
★む、む、昔のこったす、昔のこってんがな(クゥ、クゥ、クゥ……)
藤七っとん、ちょっと注いでくれ! かめへん、ちょっと注げ! お前の酒
やないねやないかい、遠慮せんとグッと注げっちゅうねん。
★若旦那、わたいなぁ、初めてご当家へ寄してもぉた時、あんさんまだ四つ
でやした。溝またげてションベンして……●あぁ、分った、分った★な、何
が「分かった、分かった」や? どぉ分かったちゅうねん、何が分かった?
●悪い酒やなぁ★どないやっちゅうねんッ▲佐助どん……★心配要るかい、
何やねん。怒ったはらへんわい。怒ったって何やねん、蔵の横手へ連れてっ
てボ~ン「うぇ~ん」いぅて泣きよんねん、何が恐いねんこんなもん(クゥ、
クゥ、クゥ……)
★なぁ、若旦那。わたい、初めてご当家寄してもぉた時は、あんさん四つで
やしたで。溝またげてションベン……、なぁなぁ、もし、これッ……
▲うるさいなぁ
★「うるさい」? うるそぉて悪かったなぁおい、どぉうるさいね
や? おい、うるさけりゃ……、何やねん、放っとけっちゅうねん、若旦那
怒ったはらへん、怒ったはらへん。何をいぅても古い奉公人やちゅうて笑ろ
て聞ぃてくれたはるやないかい。
★若旦那、堪忍しとぉくなはれや。佐助、喜んでまんねん、悲しぃて泣いて
んねんやおまへん、嬉しぃて泣いてま。古い奉公人やと思やこそ、あんたホ
ンマ……、おい注げ! 注がんかい、注げっちゅうたら注ぎさらさんのかッ!
ハッハッハッ、ビックリして徳利持って逃げて行てまいよった。ハハハハッ、
こっち注げ注げ、注げて……、いてもたろかッ、ホンマにもぉ。何かしてケ
ツカル、おのれの酒みたいな顔しやがって、ウワッ!
★若旦那、皆逃げて行てしまいよった、ハハハハッ……。若旦那、佐助喜ん
どります、喜んどりま。あんたなぁ、わて初めてご当家寄してもろた時、あ
んさんまだ四つでやした。溝またげてションベンしてな、蔵の横手へ連れ行っ
てボ~ン「うぇ~ん」いぅて……、それが色気付きやがってお前、女ご傍へ
置いてイチャイチャ、イチャイチャさらして、えぇかげんにせぇっちゅうね
んッ! ハハハハッ……、おかしぃもんやなぁ、ハハハハッ……佐助、喜ん
でまんねん、堪忍しとくなはれや……
★寝てしまいやがった……。悪い酒やなぁ、一人で三人上戸みなやってまい
よった。みんなこいつにクダ巻かれて酔いが覚めたやろ、皆景気よぉやれ景
気よぉやれ、ドンドン呑め。菊江、お前もちょっと呑んだらどやねん
◆若旦さん、あんさんこそちょっとお呑みやしたら
●わしゃ、もぉ呑んでるがな。
◆いぃえぇ、ちょっとも呑んだはらしまへん。そら、呑まれしまへんわなぁ。
大事の大事の奥さんが……、御寮人さん患ろぉたはるそぉやおまへんかいな
●そんなもんお前、御寮人さんてなこと言わんといてくれ。わしゃ何とも思
てへんねやさかい、見舞いにでもいっぺんも行ってへんねやがな
◆嘘つきなはれ、心配でかなわんなら、心配でかなわんと正直に言ぃはったらよろしぃ
の。顔に「心配や」て書いておまっしゃないか
●何をすんねや……
●おいおいおい、皆こっちジ~ッと見て何をすんねやいな、こいつとちょっ
と話があるんやさかいな。そっちいっぺん踊るなり……、あッそや、いっぺ
んこいつら踊らしたろワ~ッと。三味線持って来い三味線。かまへんかまへ
ん、弾ぃたってくれ。それからな、太鼓の代わりや、丼鉢でも皿でも何でも
チャンチキ、ワ~ッと陽気にいこ。調子合ぉたか、合ぉたらひとつ、弾ぃた
弾ぃた……♪
●さぁ、ほんだらわしもひとつ呑むよってな、注いでくれ。おい、こん中で
唄うやつ、踊るやつ、ひとつドンドン派手にやりや、派手にやりやッ
▲ほんだらな、久し振りでわてがちょっとここで踊らしてもらいまっさかいな
●やったらえぇ、やったらえぇがな。さぁ、さぁさぁ……♪
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
■定、遅れんよぉに付いといでや。南無阿弥陀仏、なむあみだぶ……、あぁ
長生きするとこんな悲しぃことにも遭わないかん。なぁ定、泣きの涙のこっ
ちにひきかえ、どっかおめでたいことでもあるとみえて、陽気に散財してな
はるうちもあるがな……
★親旦さん、あらうちでっせ。
■何じゃと?
★うちや
■何でうちがお前、あんな……、ホンに、こらうっちゃ
ないかい! 何をさらすやら、また……。これこれ、ちょっと開けとぉくれ
(ドンドン)これ、開けとぉくれ、開けんかこれ(ドンドン、ドンドン)
★あ、コリャコリャコリャコリャ……。あ、よいと、よいとよいと……
■これ(ドンドン)開けとぉくれ(ドンドン)これ番頭! 佐助、太七、藤
七、これッ藤助、開けろ(ドンドン、ドンドン)
★ちょっと待った、ちょっ
と待った、おかしぃ具合やおかしぃ具合やで……、えらいこっちゃ、えらい
こっちゃ、親旦さん帰って来はりました。
●お、親父が帰って来た? そらえらいこっちゃ。どぉ、どぉしょ~……?
誰や、こないぎょ~さん燭台出したん?
★あんたが「出せ」て言ぃなはったんやおませんかいな
●お前にやる、食てしまえ
★そんなもんが食べられます
かいな、背中へ燭台突っ込んだらいかん、体がシャッチョコばってもて……
●この鍋もこっちへ……、もぉ鯛の塩焼きやみな、どっかへなおして……、
菊江や、菊江や
◆若旦那、わたし、どないしたらよろしまんの?
●せやせや、
奥へおいで奥へ。あのな、うちの仏間、お仏壇入れ、あそこんとこ大きぃ、
ここへ入っとき。じきに出したるさかいな、もの言ぅたらあかんで、ちょっ
と待っててや……
●さぁ、表開け
★誰が開けまんねん?
●お前が開けんかいな
★悪い役やなぁホンマ……、へぇ、開けますあけます。お帰りやす……
★お、お帰りやす。おかえり、やす。お、か、え、り、やす~ウイッ
■派手な出迎えよぉじゃなぁまた……、え? 何じゃお前、背中から突き出てんのん
★燭台でお辞儀がでけしまへんねん、背中へ入ってまっさかい燭台
■お前の股ぐらから、鍋が顔出してるやないか
★痔ぃが悪いんでな、温めてまんねん
■何を言ぃくさる。おもと、お前の懐から鯛が顔出してるぞ
★まぁ、この子は、ネンネンヨォ……
■何を言ぃくさる。番頭どんはどこに居てます? 番頭わ
▲こ、ここに、控え居りまするッ
■さてさて、頼みがいのあるお方じゃなぁ
▲こ、堪(こた)えまっせ~ッ
■何を言ぅ、堪えぇでかい。せがれは?
●お父っつぁん、バァ~
■「お父っつぁん、バァ~」やないで……、とぉとぉこなたはお花を見舞い
に行てやらなんだな……
■わしが入って行くと、うつろな目ぇで顔あげて、お前の姿探してる。わし
一人じゃと分かったら「若旦那、今日もお越しやございまへんか。よくよく、
嫌われたもんだすなぁ」と、たったいっぺん恨みがましぃこと言ぃよったで。
■「いやいや、今日はどんなことがあっても、わしも連れて来ると言ぅて、
本人も来る気ぃになってたんじゃが、極道の罰(ばち)が当たったかして、朝
からえらい熱でな。体に震えがきて、どぉしても来ることがでけんことになっ
たんじゃ」と言ぅたら「さいでございますか、心付かんこってございました。
どぉぞお父っつぁん、若旦那によろしゅ~」と、わしの手を握りに来たと思
たらな、顔の相がす~っと崩れた「これ、お花……」
■見たら、この世のものやなかったがな……、南無阿弥陀仏、南無……。こ
れからじきにわしゃとって返す。お前も頭から水でも浴びて、酔い覚まして
じきに失せくされッ! あんな女じゃ、極楽往生は間違いないがなぁ、うち
には親鸞さんのありがたいお姿がある。あれをいただかしてやらんならん、
ちょっと……
●お、お父っつぁん、どこへ?
■お仏壇の引き出しに入れたぁる
●いや、あ、あかん
■「あかん」て何があかん?
●あのお姿はそんなとこ入ってぇしまへんで
■あそこへわしが入れといた
●いえ、場所が変わってます、場所が変わってます
■「場所が変わってる?」どこへ入れた?
●あの、あの、箱、箱へ入れた
■何の箱?
●いえその、箱、下駄箱
■下駄箱入れるやつがあるかいな、何をすんのじゃい……
仏間へ行く。お仏壇をギィ~ッ、と開けますといぅと、中に白い帷子の菊
江がこぉ立ってる。
■うわぁ~ッ、迷ぉて出たか……。お花、無理もない、無理もない。あぁ、
その気持ちはよぉ分かるが、堪忍してやっとぉくれ。せがれはわしが命に代
えてでも、まともな人間にしてみせるで、どぉ~ぞ迷わず成仏しとぉくれ。
な、な、迷わず、どぉ~ぞ消えてくだされ……
【さげ】
◆はい、わたしも消えとぉございます。
【プロパティ】
あんじょう=うまい具合に。味よく→アジヨォ→アンジョ~。
洗い=刺身の一種。コイ・スズキ・コチなどの新鮮な魚肉を薄く切り、冷
水や氷にさらして身をしめたもの。
水貝=新鮮な生のアワビを切って冷やしたもの。三杯酢などで食べる。
本膳=正式の日本料理の膳立てで、客の正面に置く膳。
餡巻き=和風ロールケーキ。
ハツ=鮪(まぐろ)。
鱧(はも)の落とし=骨きりした鱧をさっと湯引きし、冷水でしめた料理。
梅肉、酢味噌でいただく関西の夏の味。
針刺し=裁縫用の針を刺しておくための道具。L字型をした一方に針を刺
すボンボリが付いており、片方を座布団の下に敷いて固定させる。運
針の際、布をひっ掛けて安定させる器具も付属する。
コンニャクのおでん=甘味噌を付けて焼き上げた田楽。
海布(めぇ)=ヒジキに似た海草の一種。あるいは食用の海草一般。または
荒布(あらめ)・若布(わかめ)。メが長音化したもの。
アテ=当て:酒やビールの肴(さかな)。または、食事の副食物。
帷子(かたびら)=夏用の麻の小袖。
一重帯=厚地の、かたい織物を用いて裏や芯をつけない帯。主に女帯で夏
に用いる。
浮世小路(うきよしょうじ)=中央区高麗橋通と今橋通の間にある小路の通
称。また、道頓堀(うどんの今井東側)と法善寺横丁のほぼ中央をつな
ぐ南北約五十メートルの路地。も浮世小路と称する。
ワヤ=駄目。失敗。無謀。滅茶苦茶。枉惑(わ[お]うわく:ごまかしだま
すこと)の約訛という。ワウワク→ワワク→ワヤク→ワヤ? 「さっ
ぱりわや」は散々な目にあった意味。てんやわんやのワンヤもワヤか
ら移ったもの。
いてまう=いってしまう→いてしまう→いてまう:目的を達しようとする
こと。ここでは「やっつけてしまう」の意として用いる。ほかに「死
んでしまった」「失神してしまった」などもイテマウ。
クダ=くだくだしい、の略。くどいこと。
クダを巻く=管(くだ)を連想して巻くという、とりとめのないことを繰り
返して言う。訳のわからないことをぐずぐず言う。
失せる=なくなる、紛失する。行く、去る、居なくなる。来る、居るの卑
俗語として用いる。
親鸞さん=(1173~1262)鎌倉初期の僧。浄土真宗の開祖。別称、範宴・綽
空(しゃくくう)・善信。諡号(しごう)、見真大師。日野有範の子と伝
える。初め比叡山で天台宗を学び、のち法然の専修念仏の門に入る。
1207年念仏停止の法難に遭い、越後に流罪。赦免ののち長く関東に住
み布教と著述を行う。法然の思想をさらに徹底させ、絶対他力による
極楽往生を説き、悪人正機を唱えた。主著「教行信証」は、他力の立
場から浄土教の教理を純化・体系化したもの。ほかに「唯信鈔文意」
などがある。唯円編の法語集「歎異抄」は有名。妻は恵信尼。
私見=親旦さんがお花の幽霊と見まごうほど、菊江とお花は似ていたので
す。ということは、若旦那は菊江にお花を見ていたのかもしれません。
斜めにしか生きることが出来なくなってしまった不器用な若旦那です
が、本当はお花を……、けど、真っ直ぐ上品にお嬢様として育った、
出来すぎのお花に対しては上手に自身をコントロールできない。菊江
も女の勘で分かっているようです。価値観の違う者が愛し合った結末、
それからの若旦那の生き方に興味が湧きます。
音源:桂米朝 1992/06/11 米朝落語全集(MBS)