11月4日。
文化の日の翌日のこの日、江戸崎の不動院の調査をおこないました。
この日のお天気は、秋晴れの快晴でした!
調査は、仏像と文書資料とです。
木造地蔵菩薩立像を撮影しているところです。
今シーズンから導入したポータブル撮影台とLEDライトセットが威力を発揮します!
これがあるのとないのとでは、大違いなのです!!
今回、調査する仏像が多いのですが、現状の記録をきちんと残すため
可能な限り1点1点の仏像を撮影します。
これは先日の文化庁での研修でも言われていたのですが、仏像などが盗難に遭った場合、
写真も記録画も無く、それがどんな仏像だったのか、所有者も誰も分からない、
といった事態を避ける効果もあります。
ですから、大きな御像などは、正面、右、左、背面と4カット、坐像の場合には
像底を含めて5カットは撮影します。それ以外、特徴的な彩色や優れた技巧、
時代的特徴、制作集団の特徴などなど、必要な部分があれば撮影します。
仏像には、納入品といって胎内や御厨子の中に、お経や古銭、書付などを一緒に
入れることがあります。それらもちゃんと記録します。
↓江戸崎の不動院と言えばこの人!!
↓誰だかわかりますか?
そうです、このお方こそ戦国時代の終わり頃、江戸崎不動院の住職を兼務していた
随風(ずいふう)さんなんです!
え!え?随風さんって誰ですかって?
この随風さん、実はいくつかお名前をお持ちのようで、
南光坊(なんこうぼう)とか、慈眼大師(じがんだいし)とか。
後の世の人からは、「黒衣の宰相」なんてニックネームまでもらっちゃってマス!
しかして、その実体は…
徳川家康、秀忠、家光三代のブレーンとして、宗教的、マジカルな面から江戸幕府
260余年の礎を築いたとも言われる…
天海大僧上(てんかい・だいそうじょう)、その人です!!!
天海さんは、寛永20年(1643)に、108歳で亡くなったということですから、
とても長生きされた方のようです。
徳川家康が、慶長8年(1603)年に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いたことは
日本史で習いますよね?
でも、この慶長という年号の頃は、本当にまだ戦国時代の真っただ中のような
荒々しい時代だったらしく、日本刀には「慶長新刀」という時代区分があるくらい
なのです。
しかし、世の中の統治者としては、それでは困りますよね。
荒ぶる戦国武将や浪人たちを鎮撫しつつ、都市整備や社会秩序を整えて、
平和な世の中を作らなければなりません。
天海さんは徳川三代に仕え、そういった戦国時代から江戸時代への橋渡しの
お手伝いをおこなっていったようです。
その象徴的な事績として、寛永2年(1625)、三代将軍家光の頃、上野の地に
天台宗のお寺、東叡山寛永寺を建立しました。
これは京の都の鬼門を守る比叡山延暦寺に対し、江戸城の鬼門を守る東の叡山
としての意味をこめたものだそうです。
江戸時代、関東の天台宗においては、東叡山寛永寺を本山とする中央集権化
がすすみます。
そして、江戸崎田宿の不動院や小野の逢善寺などの関東壇林で修業した僧を
東叡山学寮に入学させ、その中の優秀な学僧が東叡山の指示にしたがって
地方の大きなお寺に入るというのが一般的になります。
そのオオモトを作った天海さんって、なんかスゴイ人って思いますよね?
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この日は、もう一グループが同じ不動院で、古文書の調査をおこないました。
今年、95歳になられたご住職も、まだまだお元気で興味深そうに調査風景を
覗いておられました。
これからも稲敷の寺院調査は続きますので、宜しくお願いしたいと思います。