歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

「ウサギの島」の別の顔~大久野島

2022-11-10 17:46:20 | 広島県

広島県竹原市、忠海港から船で15分ほどの小さな島です。
島中にいるウサギとふれあえるとあって、
お子さんと一緒の家族連れが目立ちました。



この平和な島は、かつて「地図から消された島」でした。
地図から消される、つまり存在しないことにされたのです。
国民に秘密にしておきたかったからでした。

その秘密が、毒ガス製造。
大久野島には、正式名・東京第二陸軍造兵廠忠海製造所、
日本陸軍の毒ガス工場が置かれていたのです。



今回の広島県福山をスタートした旅で、
わたしがどうしても訪ねたかったのが、この大久野島でした。
ムリをいって、なんとか2時間ほどの滞在を捻出しています。

せっかく出かけた大久野島。
ここに備忘録を兼ね、旅日記と、知ったことを、
まとめておくつもりです。



大久野島と戦争の関わりは日露戦争以前にさかのぼります。
明治35(1902)年、「芸予要塞」として、大久野島に南部・中部・北部の
砲台(↑)が築かれ、22の大砲が据えられました。

対馬でも同じような砲台を見ましたが、あれは国境の島でのこと。
まさか瀬戸内まで警戒していたとは・・・
当時の日本の緊張感がうかがえるようでした。

(三軒宅毒ガス貯蔵庫跡 毒ガスのタンクを支える台座が残っている


次に登場するのが、昭和4(1929)年。
昭和15(1940)年に「東京第二陸軍造兵廠忠海製造所」と改称する、
その前身の工場が開設されました。

ここで製造していたのが毒ガス。

毒ガスを含む化学兵器の製造は、
大正14(1925)年のジュネーブ議定書で禁じられています。

ただし、日本は、これに調印をしたのみで、批准はしていません。
だから製造に問題なしと見なしたのでしょう。
(解釈はどうとでもなる、良い見本!)


(長浦毒ガス貯蔵庫跡。戦後、工場の破壊のため、火炎照射器で焼いたため、
内部は黒く焼け焦げている)


さらに、昭和15(1940)年からは「陸軍技能養成所」が開かれ、
地元の小学校へ募集案内が届きます。

当時は尋常小学校の高等科へ進めるなら良い方ですから
高等科卒業の後、試験に合格し、さらに勉強できたうえ、
大久野島の工場への就職が約束される・・・

その進路は、子ども達にも、その親にも、好条件に映ったのです。

昭和12(1937)年に始まった日中戦争が長引き、
働き盛りの男は招集されていく時代のこと。

児童文学の『大久野島からのバトン』では
「陸軍の工場だから景気が悪くてもつぶれない、安心だ」
と手放しで喜ぶ小学生の父親が描かれています。

現実も似たようなものだったのでしょう。



養成所に合格した、高等小学校を卒業したばかりの子ども達も、
工員と同じように、忠海港から、大久野島へと、毎日、船で通勤します。

今回の旅で、実際にフェリーに乗り(↑)、
わずか15分ほどならば、そりゃ通勤もできたわけだと、実感しました。

当時の通勤時の船は、コロナ禍以前の通勤電車並みだったようです。
それほど、多くの人たちが働いていたことになります。



島で自転車を走らせていると、海沿いは、がらんとしている空間が
目立ち、なにやら不自然な気がしていました。


(下の写真を見ると、煙突のある建物がびっしり)

↑当時の写真を見ると・・・
このあたりには、建物が建ち並んでいます。

国民休暇村を造るときに、工場時代の壊せるものは全て壊したそうです。
それならば、空き地が広いということは、むしろ、
当時、建物が密集していたことになるのでしょう。


(「毒ガス資料館」のパンフレットより)


工場で作られていた毒ガスは、5種類でした。(↑)

どれも、恐ろしい毒薬です。
それを作る工場に、子どもを含めた、一般人が働いていたのですから
言葉を喪います。


(「毒ガス資料館」のパンフレットより)


毒ガスを作る工場では、「装面」と呼ばれる身支度を
整えることになっていました。

防毒マスク、防毒衣服、ズボン、長靴・・・といっても、
当時の代物のこと、たかが知れています。

実際、毒ガスを作る工場で働く工員は、
「装面」をしていても顔が赤黒く焼けていました。

また、毒ガス製造の作業員は、
汗がとまらず、身体のただれの激しくなる皮膚トラブルのほか、
咳や呼吸障害などの健康被害に悩まされていたと言います。


(発電所跡 巨大!)


そんな工員の様子から、大久野島は何か危ないものを作っているらしい、
と噂されたようですが、おおっぴらに口には出来ませんでした。
憲兵の目が光っていたからです。

なにせ、大久野島は、戦時中、「地図から消されていた島」。
軍としては知られては困る情報ですから、
ないものとして、通していたのです。

もちろん働く者にも、工場のことは決して口にしないよう、
強く言い渡していました。

そればかりか、秘密を守っているかどうか、
憲兵は、工員や少年養成工の家族に、さりげなく近付き、
何気ない会話から、鎌をかけていたのです。(人間不信になる・・・)



戦争末期になると、男性は招集されてしまい、
勤労動員などで徴用された女性を中心に、
いっそう、一般市民が働かされることになりました。

その人達は、動員や徴用なので、給料をもらっていたのかしら・・・?
あったとしても、雀の涙だったのでは・・・?
(調べ切れていません)


(展望所から)


大久野島の人々は、ヒロシマも体験しています。
広島詩までは、直線距離にして、わずか70㎞ほど。

昭和20(1945)年8月6日朝、原爆投下の閃光を見た人も多く、
医療関係者は、その日のうちにトラックで広島市内に入りました。
また多くの人が家族や親戚の安否を尋ね、被爆直後の広島に向かいました。

その結果、残留放射能を浴びることになってしまいます・・・


(研究所跡。国民休暇村の時代になって、宿泊施設として使われたことも)


『一人ひとりの大久野島-毒ガス工場からの証言』によると、
「ABC兵器」と呼ばれる、非人道的兵器があるそうです。
(A:核兵器 B:生物兵器 C:化学兵器)

大久野島の人たちは、ふだんからC:毒ガスに触れることで、
化学兵器の恐ろしさを知り、苦しめられています。
そのうえ、広島でA:核兵器の惨状も目の当たりにしました。

その結果、AC両方の兵器を経験するという、
あってはならない希有な存在となってしまったわけです。

「万能とも思えるヒトの知恵だが、
もしも誤れば、自分たちの種を絶滅することになりかねない
きわめて深刻な命題がそこにある」◆180頁

肝に銘じたい言葉です。


(芸予要塞時代の桟橋)


終戦の翌日、昭和20(1946)年8月16日、
大久野島では証拠の隠滅命令が出ます。
この隠滅作業が9月11日までかかりました。

その後、10月から翌2月まで、アメリカ軍が進駐し、
毒ガスの廃棄を試みます。(毒物を海に投下したそうな)

実際に作業を担当したのは、帝人・三原工場、
帝人社員のほか、大久野島の旧工員、地元の下請け業者などでした。

昭和21(1946)年6月からはじめた本格的な解体作業は、
翌年5月にはほぼ終了しました。



このとき、旧工員は、「戦後処理の方が工員時代よりも危険だった」
「戦後処理のときのほうがガスの臭いがきつかった」と証言。◆218頁

この戦後に行われた作業の結果、
多くの人が健康を害し、さらに苦しむことになりました。

後遺症に苦しむ人たちは、さまざまな事情もあり、
沈黙を貫くものの、次第に、声をあげ始めます。



「大久野島毒ガス資料館」も、そのひとつ。

毒ガス障害者対策連絡協議会の当時関係した15自治体、
毒ガス障害者の10団体によって設立が決められ、
1988(昭和63年)にオープンしました。

これによって、毒ガス工場の悲惨な状況が明らかにされたのです。

とはいえ・・・
昨今、最新の技術を取り入れた展示が各地で見られる中、
30年以上を経た、この資料館は、昔ながらの展示です。

中身は濃いものの、正直、それを生かし切れていないようで
残念な気がしています。
(個人の感想・意見です)


(島から対岸を眺める)


島で作られた毒ガスは、実際に中国で使われたとも言います。
少なくとも、戦後、中国では、日本軍の遺棄ガスによって
被害が出ていることは確かです。

かつて毒ガス工場に関係した人たちは
自らの健康被害だけでなく、加害の立場にもなってしまい
どれほど、お辛い思いをされたかと・・・

戦争とは、たやすく、加害者にも、被害者にもなりうる・・・
今、それが怖くてなりません。




時は流れ・・・

令和の現在は、「ウサギの島」として人気の大久野島。

かつて毒ガス工場だった頃にも、ウサギがいました。
当時は、実験用として飼育されていたとか。

現在、大久野島にいるウサギは、その子孫ではありません。
というのは、戦後、毒ガスに関わるものは処分されており、
当然、ウサギも・・・。


(忠海港のチケット売り場)


では、今のウサギは・・・?

諸説あるようですが、
わたしは『大久野島からのバトン』に書かれていた
エピソードだったら良いなぁと思っています。

昭和36(1961)年、「国民休暇村」第1号に大久野島が選ばれました。
事業を担当竹原市の職員は、天敵のいない大久野島に
ウサギを放すことにします。

厳しい冬を越え、春になると、仔ウサギの増えていたことがわかりました。
「『これこそ平和だ。平和のシンボルだ』/職員達は手を取り合いました」◇128頁



今、小さな子ども達がウサギに歓声をあげ、
若いパパ・ママが愛しげに、我が子をみつめる・・・
これこそ、平和な光景です。

ウサギを存分にかわいがれる、
この平和が続くことを願ってやみません。

****************************
おつきあいいただき、どうもありがとうございました。

本記事は、島内の案内版などと共に、以下の本を参考にまとめました。
素人ゆえ、勘違いや間違いなどもあるかと存じますが、
どうぞ、お許し下さいませ。

本文中の引用箇所は、◇と◆で区別しています。
◇今関信子『大久野島からのバトンー文学のピースウォーク』新日本出版社
◆行武 正刀 『一人ひとりの大久野島-毒ガス工場からの証言』ドメス出版

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2 コメント

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戦争の記憶 (あた子)
2022-11-13 01:18:02
無駄のないわかりやすい文章に感服いたしました。そしてこんなにも問題意識をもってここを訪ねられたことに、そういう方がいらっしゃるということに感動しました。実はわたしはまだこの島へは行ったことがないのです。
父は少年志願兵として南方の戦線に行きました。仲間が次々と餓死していく中で運よく助かって94歳の天寿を全うしましたが、同じ年ごろの少年がここで働いていたのですね。どちらにせよ過酷な青春時代を送らねばならなかったのですね。
「戦争の記憶が薄れてきた現代、その悲惨さをダイレクトに伝えても受け入れられない、また伝えることをためらう」と、若い新聞記者が思いを書いていました。だから今の人たちの暮らしから実感できることから(例えば食とか労働とか)伝えていきたいと。
なるほどなあと思いました。いろいろな経験をしてきた年寄りと、豊かな暮らしに慣れた若者とでは感じることが違うのですね。私は年をとるほどにこうしたお話がつらくなってきました。娘には人体実験の話とか、アウシュビッツの話とか読ませたり自分も読んだりしましたが、今はそれも耐えられないような気がします。
だから、大久野島へはあまり行く気がしなくて・・・・でも、知っておかなければならないことですし、次世代へつないでいかなければならないことですよね。こうして教えていただいてよかったです。ありがとうございました。
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あた子さま (ぴあ野)
2022-11-14 06:12:59
あた子さん、お気持ちのこもったコメントをどうもありがとうございます。
こんな長文を読んでいただけただけでも嬉しいのに、
感謝です。
過分なお言葉を頂戴し、恐縮ですが・・・

歴タビは、高い志があるわけではなく、40代での大病以来、
生きることに対し、妙な使命感に駆られてしまったからだと思います。
そんな程度なので、戦跡めぐりでも、あた子さんのうにお父様が少年兵でいらしたなど、
ご自身の中に、しっかり関わりのある方と
お話ししていると、恥ずかしくなります。

以前、お父様のことをお書きになっていらっしゃったでしょう?
あの優しそうなお父様は、いろいろ抱えておいでだったのですね・・・
少年に背負わせるには重すぎます・・・

新聞記者さんの言葉、わたしも、よくわかります。
アラカンの私が生まれる60年前と言えば日露戦争の頃!
今の若い人たちと価値観やらなんやらが違って当然だと最近ひしひし感じます。
だからといって、何も知らないままになってしまうのは違いますもんね。
記者さんのおっしゃるよう、入りやすいところから入っていくのは大事だと思います。
まぁ、わたしもエラそうにいえるわけではありませんが。

あた子さん、年齢とともに、この手の話がお辛くなるのは、
母を見ているので、わかる気がします。
ここ数年、母は、悲しい話や辛い話はイヤ・・・
と首をふるようになりました。
かつて、アウシュビッツ行きに尻込みする私を叱りつけた人なのに・・・

わたしはまだ、なんとか進めているので、
もう少し、歴史の陰の部分も、しっかり見ていきたいと思っています。
また、おつきあいいただけたら嬉しいです。
今後とも、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
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