アザミの花が盛りの様子。
アプリ使わずブラウザ版で、写真載せるの慣れてきた。
さて本題。
年を経るごとに、文章を書くのが億劫になっている感覚がある。
より正確には、大昔の子供時代に戻ったとも言える。
昔の自分、読書の方は好きの極みで、自他共に認める活字中毒者だった。
時間が許す限り何でも読んでいた。
絵本も教科書も、図書館の児童書も、家に積まれてる駅売りスポーツ新聞まで目を通していた。
(今思えばとんでもねーモノも読んでいた)
一方、作文の授業は、もう踏んづけたくなるほど嫌いだった。
振り返れば、自分の家の比較的特殊な事情を正直に記した端から、ことごとくトラブルが発生。
結果、自分の思い感じた事を打ち明ける事が出来ず、つまり全く何も書けなくなり、そしてそういった理由を言語化する事自体、不可能で……という悪循環。
大人になってから、読書感想文とは自分の生活を引き合いに出して書くのが王道と知り、そら私には無理だと、いっそ笑ってしまった。
転機になったのが、ワープロを覚えた事だった。
父が仕事で使ってる機体を、当時買ってもらえなかったゲーム機の代わりにいじり、それで長文を書けるようになった。
黎明期のネット掲示板に自分の考えを書いて、他の人たちと会話した。
実社会では出来ないニッチな話題について、やり取りし続け、ブログを始め、創作や考察の形で、衝動を叩きつけてきた。
そう。私がこうして文章を書き続けているのは、ここでしか言えない正直な感情を形にしたかったからだ。
本や映画の感想も、ゲームの攻略情報も、そういった気持ちを表す手段の一つだ。
それが時を経て、状況が変わってきた。
今や多くの人々が、ネットに文章を書いている。
同じ話題で、私よりもずっと的確に、読みやすく面白い文章を書いている方々を見かけ、その度に萎縮している。
比べたって意味ないのに。
より正確には、大昔の子供時代に戻ったとも言える。
昔の自分、読書の方は好きの極みで、自他共に認める活字中毒者だった。
時間が許す限り何でも読んでいた。
絵本も教科書も、図書館の児童書も、家に積まれてる駅売りスポーツ新聞まで目を通していた。
(今思えばとんでもねーモノも読んでいた)
一方、作文の授業は、もう踏んづけたくなるほど嫌いだった。
振り返れば、自分の家の比較的特殊な事情を正直に記した端から、ことごとくトラブルが発生。
結果、自分の思い感じた事を打ち明ける事が出来ず、つまり全く何も書けなくなり、そしてそういった理由を言語化する事自体、不可能で……という悪循環。
大人になってから、読書感想文とは自分の生活を引き合いに出して書くのが王道と知り、そら私には無理だと、いっそ笑ってしまった。
転機になったのが、ワープロを覚えた事だった。
父が仕事で使ってる機体を、当時買ってもらえなかったゲーム機の代わりにいじり、それで長文を書けるようになった。
黎明期のネット掲示板に自分の考えを書いて、他の人たちと会話した。
実社会では出来ないニッチな話題について、やり取りし続け、ブログを始め、創作や考察の形で、衝動を叩きつけてきた。
そう。私がこうして文章を書き続けているのは、ここでしか言えない正直な感情を形にしたかったからだ。
本や映画の感想も、ゲームの攻略情報も、そういった気持ちを表す手段の一つだ。
それが時を経て、状況が変わってきた。
今や多くの人々が、ネットに文章を書いている。
同じ話題で、私よりもずっと的確に、読みやすく面白い文章を書いている方々を見かけ、その度に萎縮している。
比べたって意味ないのに。
ランキングとか、アクセス解析とか、そういうのが表示されるようになってから、ずっと付きまとってるわだかまり。
商業目的でもないのだから、私はあくまでも私のために書き続けよう。
書きたい事を正直に。無論安全にね。
それでは。また次回。