飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

少女パレアナ

2024年09月17日 05時32分53秒 | 人生論
担任時代に教室に置いていた本がある。
自費で買った本だが、自分自身が興味をもち、読みたいと思い購入した本ばかりである。
ある意味、担任の趣味の押しつけ的な側面は否定できない。
もちろん子どもたちには「必ず読むように。」とも言わないし、「感想をきかせて。」とも言わない。
黙った、後ろのロッカーに置いておくだけである。
「先生、読んでいいですか?」
「先生、借りて家で読んでもいいですか?」
と子どもたちが聞いてくるので、
「どうぞ、自由に読んでいいんですよ。
 借りていくこともできます。」
と言っていた。

その多くの本の中の1冊が「少女パレアナ」(角川文庫(昭和37年初版)/村岡花子訳)。である。
だいぶ古い本である。
この本は、エレナ・ポーターが1913年に書いた小説である。
この本を原作とした「愛少女ポリアンナ物語」というテレビアニメも放映されていたので、こちらを知っている方もいるかもしれない。
ただし、1986年の放送なので、現在40歳以上の方しか知らないと思う。

その小説は主人公のパレアナは、幼くして愛する両親を亡くし、孤児になってしまう。
その後、気難しく頑なな叔母に引き取られ、冷たくされる。
しかし、その明るさと素直さはやがて周囲の人の冷たい心を溶かしていく。
そして、どんなにつらい境遇でも、そこから何か喜びをみつけるというゲームをはじめ、そのゲームは村中に広がり、人々の心を結びつけていく。

では、パレアナはどうしてこの何か喜びをみつけるゲームを始めるようになったのか。
それはこんなエピソードからである。
「喜びのゲーム」が始まったきっかけは、若くて清くて貧しい牧師の父親が生きていたとき、小さなパレアナは誕生日に人形を欲しがった。
そんな時、教会の慰問箱に松葉杖が入れられていた。
でも父親は、「杖を使わなくてもすむから喜べる」と教える。
それ以来、パレアナはどんなときにも「喜べる理由」を探し出すことをゲームとして楽しむようになる。
それは探し出すのは難しければ難しいほど面白いゲームになった。
この松葉杖は、このゲームの中心となり、小説の伏線になっている。

パレアナの「喜びのゲーム」は多くの人々に影響を与え、喜びの種を蒔いていく。
小説の中のエピソード。

 叔母さんは父親の遺産を受け継いだ裕福な四十女で、家は広くて立派でした。
でも姪に与えた屋根裏の小部屋は殺風景で、敷物も絵も鏡もなかったのですが、パレアナは「鏡がなければソバカスもうつらないでいいし、窓からはあんなに美しい絵のようなすてきな景色が見えるし」と言います。
パレアナはすぐ喜ぶことを探し出し、喜ぶことのほうを考え、いやなほうは忘れてしまうのです。

 メイドのナンシーが、自分の名前は平凡で嫌いだと言ったら、「ヘプジバという名前でないことを喜べるわ」と言い、パレアナは、知り合いの女性が「ヘッブと呼ばれるのは(ヘッブ万歳!と、からわれるようで)いやでいやでたまらないんですって」と話すと、ナンシーは自分の名前が以前の半分も気にならなくなります。
 ナンシーが、仕事始めの月曜日が一番いやだと言ったら、「一週間のどの日より月曜日の朝、喜んでいいと思うわ。だって次の月曜日が来るまでに、まる一週間あるんだもの」と言います。ナンシーはそれを思い出すたびに笑いたくなります。

 近所のスノーさんは、何もかも気に入らない、寝たきりのひがみおばさんです。
パレアナが「おばさんの目は大きくて黒くて、髪はまっ黒できれいなカールになっている」と褒めて髪を結い、花瓶の花を一輪つまんで髪に差すと、花はしぼむからいやだと泣き言を言うので、パレアナは「しぼむからこそうれしいんですわ。また新しい花が手に入りますもの」と言います。
 スノーさんが、近所から聞こえてくるピアノの練習の音が聞こえて気がどうかなってしまいそうだと不満を述べると、パレアナは、ピアノの音を聞きたくないから寝返りをしようと思ってもリュウマチで寝返りも打てない人の話をし、その人の妹さんが耳が悪いために会話ができなくてみんな大変だったけど、でもその人は「自分は耳が聞こえると思ったらうれしいと思えてピアノの音を我慢できるようになった」話をします。
 そして「おばさんは、他の人たちがおばさんみたいでないことをどんなにか喜べることでしょう。寝たきりじゃ大変ですものね」と言うと、スノーさんはあまりいい返事をしませんが、パレアナが帰ったあと、目には涙が流れています。

 地元の教会員が分裂して悩んでいる牧師がいました。
聖書には『主にあって喜べ』とか『大いに喜べ』といった聖句が、特別い
パレアナは、父親の牧師が同じような顔をしていたことを話し、父は「聖書に喜びの句がなかったら1分だって牧師なんかしてられない」と言っていた。
やな気持ちのときに数えたら800もあったという話をすると、牧師は神妙な顔をします。
 
引用終わり。

さらに、この喜びをみつけるゲームの厳しさを痛感するできごとが起きる。
これが現実だと思わざるをえない困難がパレアナにふりかかる。
パレアナは自動車にはねられ、入院することになる。

以下引用。
 
 そのようにパレアナが人々を喜ばせていた或る日、なんと彼女自身が交通事故に遭い、歩けなくなりました。
彼女の《喜びのゲーム》はどうなるのでしょう?
 パレアナは、最初の頃は、学校に行けたらどんなにうれしいだろうか、スノーさんに会いに行ったり、Bさんを訪ねたり、T先生と馬車に乗ったりしたら、どんなにうれしいだろう、と将来は治ることを想像して《喜びのゲーム》をします。
 ところがパレアナは、足が二度と治らないという内緒話を、猫がドアをちょっと開けたために聞いてしまい、悩みだします。
「自分が生涯の病人にどんなにして喜んだらいいかを教えるのはやさしいけれど、自分が生涯の病人になって、そうしなければならないとなると、そうはいかない」と言って気をもみます。
「他の人たちがあたしのようじゃなくてどんなにうれしいかもしれないと、何度も何度も自分に言い聞かせるのだけれど、そう言っている間じゅう、自分が二度と歩けないということしか考えられない」と言い、「遊びは難しいときにはいっそう面白いと言ったが、本当に難しいときには、そうじゃない」と嘆くのです。
 パレアナが何よりも嘆いていることは、自分がこの不幸にぶつかった今、遊びができないことで何一つ喜びを見いだせないことだというメイドのナンシーの報告が広まったときには、町の人々の涙もつのる一方でした。

 町中の人が見舞いに訪れ、パレアナはゲームを再開する。
 人々は心配して次から次へと見舞いに訪れ、《パレアナのおかげで喜べるようになったことを伝えてほしい》と口々に言います。
パレアナの叔母は、姪がどこでこんなに大勢の人と知り合ったのかと驚きます。
 しかし叔母は、パレアナが会う人みんなに、どんなときでも喜べる理由を探し出すゲームを教えていくうちに、町中で《喜びのゲーム》が知られるようになり、暗くつらかった人々の毎日が明るく楽しい毎日に変わり、町中が前よりも驚くほど幸福になっていることを知り、そのことを喜んでパレアナに伝えます。
 そうしたらパレアナは手を叩き、「ああ、うれしいわ」と叫んだかと思うと、突然、顔に素晴らしい輝きが表れます。
「あら、叔母さん、やっぱり、あたしにも喜べることがあるわ。とにかく、前には足があったということよ。
 そうでなかったら、そんなことがとてもできなかったでしょうからね!」
 そしてパレアナの足の治療の話をきっかけに、叔母さんがけんか別れをしていた昔の恋人T先生との関係が元通りになり、やっと結婚することになった話を聞いたときは、パレアナは大変喜びました。
「ああ、叔母さん、あんまりうれしくて、ちっとも足のことでさえ、いまじゃ、どうでもかまわないくらいよ」

 パレアナは以前、足が歩けたときはみんなに会えたから、みんなが喜べるようになれたと気づいて喜べるようになりました。
歩けない現在と未来の暗さを見ることから、今まで成し遂げた明るさを見ることに視点を移したのです。
 そして今は叔母さんが結婚できたことを大変喜んだので、歩けない現在のことが気にならなくなりました。
 つまり、何よりもパレアナは自分のことより他の人の喜びを考えたとき、自分の喜びを保てるようになったのでしょう。
 また、町の人々と叔母さんの喜びをパレアナが知ったというのも大事なことだったでしょう。
だからこそ、パレアナは自分の喜びに気付けるようになりました。

引用終わり。

パレアナは言う。
「生きてるってことは、自分の好きなことをするのが生きることです。」と。
人間生きていくときに、「好き」なことだけをやって生きていくことはできない。
特に、大人になればなるほどその傾向は強くなる。
そんな理想論で何にも救われないと考えてしまいがちになる。
しかし、だからこそ、「なんでも喜ぶ」遊びが意味をもつようになる。
人の物事の捉え方は様々であり、見方考え方次第で、不運も幸せになる。
小説の中でパレアナが一貫して訴えている、「どんなことの中からでも喜ぶことを探しだす」という考え方を大事にしたい。
この考え方は決して自分自身の人生を豊かにするだけでなく多くの人たちの心をも明るくし、生きていることを楽しくしていくことへと繋がる。人生に希望を抱くことや互いに思いやること、愛することも含めて。
余談だが、物語の結末も少しはハッピーエンドなのも自分としては嬉しい。

saitani