今日は8月15日。メディアでは、【終戦記念日】。正確に言うと、【敗戦記念日】。
【終戦記念日】という語感からは、日本が、主体的に戦争を終わらせたのであって、戦争に負けたのではない、というニュアンスがある。本質は、ポツダム宣言を無条件に受諾して、日本が負けた日。
実は、【敗戦記念日】を【終戦記念日】と言い換えたために、何故日本は愚かな戦争に突入し、何故敗けたのかという、原因究明がおろそかになり、戦争責任の追及が疎かになった。
昨年、官僚が、物事の本質を微妙に言い換える「東大文学」という言葉が流行ったが、この日本流言いかえ術は戦前からの伝統だった。
特に酷くなったのが、ミッドウェイ海戦の敗北以降。戦況を伝える【大本営発表】はこの種の言いかえの代表。「転進」と言ったら、敗北して退却をした、と読めば良い。
日本における官僚は、この種の詭弁、言い換え、誤魔化しなどの【言葉】とそれを合理的に説明する【屁理屈】をどうひねり出すかが、優秀かどうかの判断基準になっているふしがある。【一億総懺悔】などと言う言葉に流されて、日本国民の手で戦争責任を追及しなかった。これもまた、見事な【東大文学】である。
現在の戦争前夜のような世相を作り出してきた最大の要因は、国民一人一人が歴史に真摯に向き合わなかった事にある。
※日本と全く対照的に戦後のドイツとドイツ国民は、ナチス・ドイツの戦争責任を追及し、真摯にナチス・ドイツの負の歴史と真正面から向き合った。戦争で多大な損害を与えた欧州各国に対して、謝罪と融和を粘り強く、国家挙げて取り組んできた。
今年、7月20日。そのドイツで、びっくりするような式典が行われた。
第二次大戦末期、ドイツ軍将校による【ヒトラー暗殺未遂事件】が起きてから75年の式典が行われ、民主主義を取り戻すための抵抗としてたたえられている。
・・・
メルケル首相は式典に参列し、花輪を捧げ、以下のように述べた。
「不服従が義務となり得る瞬間がある。75年前に抵抗した人たちは、他の人たちが黙っているときに行動した。状況が完全に異なっているとはいえ、今日の私たちにとっての模範だ」
全体主義の独裁政権に抵抗した事実をたたえることで、民主主義や法の支配を自分たちの力で守り続けていかなければならない、との訴えだ。
メルケル氏は式典に先立つ声明で「右翼過激派には(付け入る)機会がないということをはっきりさせるため、力を合わせよう」とも語った。・・・・
朝日新聞 デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASM7M7L3BM7MUHBI03K.html
ヒトラー暗殺事件は複数回あるが、7月20日のものは、トム・クルーズが主演した映画「ワルキューレ」そのものだ。
暗殺に失敗した将校5人が銃殺された場所にメルケル首相は花輪を捧げ、【他の誰もが沈黙している時に行動した】とその勇気をたたえた。
わたしが注目したのは、【不服従が義務となりうる瞬間がある】という言葉だ。一国の首相が、当時の政権(ナチス・ドイツ)の方針に不服従を示し、暗殺を計画した将校を褒めたたえた。
この言葉、取りようによっては、暗殺者(テロリスト)を賛美していると誤解されるかもしれない。為政者としてはきわめて危険な言辞になりかねない。
しかし、メルケル首相は、【不服従は時には義務になりうる瞬間がある】と語り掛けた。この言葉そのものが、彼女のレーゾンデートルである民主主義を守ろうという強い政治的信念の表現である。
7月2日、ドイツのマース外相は、ポーランドのワルシャワを訪問した。
大戦末期、ナチスドイツの占領下にいたワルシャワ市民が、解放と戦後の独立を求め反乱を起こし、約2カ月間で20万人が犠牲になったいわゆる「ワルシャワ蜂起」から75年を迎え、敬意と追悼の式典が開かれたのである。
マース外相は、「ポーランドに対してドイツ人が行ったこと、ドイツの名の下、ポーランドに対して行われたことを恥じている」とポーランド国民に、語り掛け、許しを請うた。
日本とドイツの戦争に対する向き合い方の差が、このような為政者の言辞の差となって表れている。現在の日韓関係の深刻さの最大の要因は、加害者である日本の姿勢が、ドイツのような真摯さが欠落しているからである。
【不服従は時には義務となりうる瞬間がある】
昨年の国会で、前文部科学省事務次官前川喜平氏が起こした反乱は、まさにこのメルケル首相の言葉そのものである。
「あるものを無いとは言えない」という彼の言葉は、これ以上、国民を騙し、愚弄する事は出来ない、という姿勢の表現である。彼を孤立無援にしてはならない。
わたしは、今日本は戦後最大の危機に立っていると考えている。文字通り、国家として存亡の危機にある、と考えている。
この種の危機に際して国家の舵取りを担っている政治家・官僚たちは、正確に現状を把握しなければならない。見たくない数字も、見たくない現状も真正面から見なければならない。問題解決の方針は、そこからしか見いだせない。
しかし、現在の安倍政権は、都合の悪い数字、都合の悪い現実を決して見ようとはしない。数字は改竄する。時には捏造する。時には、無いことにする。まず身内に利益を誘導する。身内の不祥事は徹底的に擁護する。
国民には、現実と正反対の政策を提示する。公約は破るためにある、と嘯いている。やったふりをする。それで誤魔化せる、と考えている。
これで国家が腐らないはずがない。何度でもいう。【魚は頭から腐る】。日本は国家破滅の瀬戸際に立っている、と認識しなければならない。
こういう状況を見れば、メルケル首相の言葉【不服従は時には義務となりうる瞬間がある】が身に染みてくる。
現在の日本、特に霞が関の官僚やメディア連中は、この言葉を噛みしめなければならない。
前川喜平の生きざまに自らを省みる必要がある。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
【終戦記念日】という語感からは、日本が、主体的に戦争を終わらせたのであって、戦争に負けたのではない、というニュアンスがある。本質は、ポツダム宣言を無条件に受諾して、日本が負けた日。
実は、【敗戦記念日】を【終戦記念日】と言い換えたために、何故日本は愚かな戦争に突入し、何故敗けたのかという、原因究明がおろそかになり、戦争責任の追及が疎かになった。
昨年、官僚が、物事の本質を微妙に言い換える「東大文学」という言葉が流行ったが、この日本流言いかえ術は戦前からの伝統だった。
特に酷くなったのが、ミッドウェイ海戦の敗北以降。戦況を伝える【大本営発表】はこの種の言いかえの代表。「転進」と言ったら、敗北して退却をした、と読めば良い。
日本における官僚は、この種の詭弁、言い換え、誤魔化しなどの【言葉】とそれを合理的に説明する【屁理屈】をどうひねり出すかが、優秀かどうかの判断基準になっているふしがある。【一億総懺悔】などと言う言葉に流されて、日本国民の手で戦争責任を追及しなかった。これもまた、見事な【東大文学】である。
現在の戦争前夜のような世相を作り出してきた最大の要因は、国民一人一人が歴史に真摯に向き合わなかった事にある。
※日本と全く対照的に戦後のドイツとドイツ国民は、ナチス・ドイツの戦争責任を追及し、真摯にナチス・ドイツの負の歴史と真正面から向き合った。戦争で多大な損害を与えた欧州各国に対して、謝罪と融和を粘り強く、国家挙げて取り組んできた。
今年、7月20日。そのドイツで、びっくりするような式典が行われた。
第二次大戦末期、ドイツ軍将校による【ヒトラー暗殺未遂事件】が起きてから75年の式典が行われ、民主主義を取り戻すための抵抗としてたたえられている。
・・・
メルケル首相は式典に参列し、花輪を捧げ、以下のように述べた。
「不服従が義務となり得る瞬間がある。75年前に抵抗した人たちは、他の人たちが黙っているときに行動した。状況が完全に異なっているとはいえ、今日の私たちにとっての模範だ」
全体主義の独裁政権に抵抗した事実をたたえることで、民主主義や法の支配を自分たちの力で守り続けていかなければならない、との訴えだ。
メルケル氏は式典に先立つ声明で「右翼過激派には(付け入る)機会がないということをはっきりさせるため、力を合わせよう」とも語った。・・・・
朝日新聞 デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASM7M7L3BM7MUHBI03K.html
ヒトラー暗殺事件は複数回あるが、7月20日のものは、トム・クルーズが主演した映画「ワルキューレ」そのものだ。
暗殺に失敗した将校5人が銃殺された場所にメルケル首相は花輪を捧げ、【他の誰もが沈黙している時に行動した】とその勇気をたたえた。
わたしが注目したのは、【不服従が義務となりうる瞬間がある】という言葉だ。一国の首相が、当時の政権(ナチス・ドイツ)の方針に不服従を示し、暗殺を計画した将校を褒めたたえた。
この言葉、取りようによっては、暗殺者(テロリスト)を賛美していると誤解されるかもしれない。為政者としてはきわめて危険な言辞になりかねない。
しかし、メルケル首相は、【不服従は時には義務になりうる瞬間がある】と語り掛けた。この言葉そのものが、彼女のレーゾンデートルである民主主義を守ろうという強い政治的信念の表現である。
7月2日、ドイツのマース外相は、ポーランドのワルシャワを訪問した。
大戦末期、ナチスドイツの占領下にいたワルシャワ市民が、解放と戦後の独立を求め反乱を起こし、約2カ月間で20万人が犠牲になったいわゆる「ワルシャワ蜂起」から75年を迎え、敬意と追悼の式典が開かれたのである。
マース外相は、「ポーランドに対してドイツ人が行ったこと、ドイツの名の下、ポーランドに対して行われたことを恥じている」とポーランド国民に、語り掛け、許しを請うた。
日本とドイツの戦争に対する向き合い方の差が、このような為政者の言辞の差となって表れている。現在の日韓関係の深刻さの最大の要因は、加害者である日本の姿勢が、ドイツのような真摯さが欠落しているからである。
【不服従は時には義務となりうる瞬間がある】
昨年の国会で、前文部科学省事務次官前川喜平氏が起こした反乱は、まさにこのメルケル首相の言葉そのものである。
「あるものを無いとは言えない」という彼の言葉は、これ以上、国民を騙し、愚弄する事は出来ない、という姿勢の表現である。彼を孤立無援にしてはならない。
わたしは、今日本は戦後最大の危機に立っていると考えている。文字通り、国家として存亡の危機にある、と考えている。
この種の危機に際して国家の舵取りを担っている政治家・官僚たちは、正確に現状を把握しなければならない。見たくない数字も、見たくない現状も真正面から見なければならない。問題解決の方針は、そこからしか見いだせない。
しかし、現在の安倍政権は、都合の悪い数字、都合の悪い現実を決して見ようとはしない。数字は改竄する。時には捏造する。時には、無いことにする。まず身内に利益を誘導する。身内の不祥事は徹底的に擁護する。
国民には、現実と正反対の政策を提示する。公約は破るためにある、と嘯いている。やったふりをする。それで誤魔化せる、と考えている。
これで国家が腐らないはずがない。何度でもいう。【魚は頭から腐る】。日本は国家破滅の瀬戸際に立っている、と認識しなければならない。
こういう状況を見れば、メルケル首相の言葉【不服従は時には義務となりうる瞬間がある】が身に染みてくる。
現在の日本、特に霞が関の官僚やメディア連中は、この言葉を噛みしめなければならない。
前川喜平の生きざまに自らを省みる必要がある。
「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
流水
