モーツァルトのオペラ「コシ・ファン・トゥッテ」の私の一番好きな箇所も、前作の「ドン・ジョヴァンニ」の終曲と同様の快活な重唱。それは第1幕のエンディングで、こんな感じ。
フィオルディリージ(一番上のソプラノのパート)がラを伸ばしてるところに(青いライン)、負けるものかとドラベッラ(二段目)とデスピーナ(三段目)が長い音で入ってくるところなど(赤いライン)わくわくする。調も「ドン・ジョヴァンニ」の終曲と同じニ長調。
因みに、このオペラのタイトル「コシ・ファン・トゥッテ」(Cosi fan tutte)は、二作前の「フィガロの結婚」に「Cosi fan tutte」の歌詞がちらっと出てくるのだが(次の楽譜の赤いライン)、
皇帝がこれを聴いて面白がって、この歌詞を使ったオペラを書け、とモーツァルトに命じたのが出来たきっかけだと。
その意味は「女はみんなこうしたもの」。イタリア語のイの字も知らなかった頃の私は、「Cosi」は「こうした」で、「tutte」が「みんな」だから、「fan」が「女」だと思ったわけだが、大間違い(ブログのためならば自分の恥をさらすことを厭わないワタクシ)。「tutte」は「全て」の女性複数形でこれだけで「すべての女は」。「fan」は「fannno」の省略形で「する」「ふるまう」の意味。だから「Cosi fan tutte」は直訳すると「すべての女はこのようにふるまう」となり、これを意訳して「女はみんなこうしたもの」となるのである。
ところで、「女はこうしたもの」などというジェンダーによる決めつけは、ジェンダー・フリーのこのご時世においてはふてほど(不適切にもほどがある)。これを改める方法の一つは、一切、「女は……」という日本語訳を表に出さず、表記をイタリア語の「Cosi」のみにすること。どんなに破廉恥な歌詞でも外国語となるとありがたがってかしこまって聞く日本人のなんと多いことか。だからである。
だが、どこぞから日本語訳を聞きつけるかも知れぬ。その場合の対策は、その昔、クラシック好きの子供達のアイドルだった元NHKアナウンサーの後藤美代子さんが私の知る限り唯一放送でご自分の意見をおっしゃったと思われるあの名言、すなわち、「わたしは『男はみんなこうしたもの』と言いたい」を実行に移すことである。すると、タイトルは「Cosi fan tutti」となる。すると、逆差別だと言って怒る男が現れるかもしれない。その場合は、「tutti」は男性形複数だが、男女ひっくるめた全員のことも「tutti」と言うようだから(全合奏のとき楽団員に女性がいても指揮者は「Tutti!」と言う)、これは「人はみなこうしたもの」の意味なのだ、と言ってやればよい。事実、このオペラは、出てくる男どもも相当馬鹿である。
なお、某国の新しい大統領は、性は「male」と「female」しか認めないと言うような保守派であり、前大統領の施策を次々と反故にしているから、この方が「Cosi fan tutti」などと聞いたらたちどころに「Cosi fan tutte」に戻せとお命じになるだろうか。
因みに、「ふてほど」は「不適切にもほどがある」の四文字略語であるが、このドラマが言いたかったことは、「不適切にもほどがあると言うにもほどがある」だったと思う。
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