黒式部の怨念日記

怨念を恐るる者は読むことなかれ

川の成り立ちVol.10隅田川の河口はどこ?

2024-12-30 19:57:16 | 地理

疑問は年明けまで引きずるべきではないのでここで問題提起をするわけだが、果たして、隅田川の河口はどこだ?言い方を変えると、一番下流に架かる橋はどれだ?(なお、下図における地形、橋間の距離等々は簡略化したものであり、現実を反映しているものではない。また、図中の橋は、現在架かる橋であり、当時を反映するものではない)。

普通に考えれば、隅田川の左岸に最後に接する陸地は月島埠頭であり、その最南端に架かる築地大橋がもっとも下流の橋であり、そのすぐ南側が河口である。

それが世間の共通認識のようである。だが、引っかかるのは、月島埠頭が埋立によって造られた「人工島」である、ということ(埋立てが始まったのは明治中期であり大正期になって完了した)。そうした人工島を抜けた所を河口とするのがはたして適当だろうか?さらに、河口を「本来の河口」に求めるなら、埋立てによって後からできた河口は河口でないこととなる。

そう考えて、月島埠頭の南端を河口と見ないのであれば、月島埠頭ができる前、すなわち、月島埠頭の根っこの辺りが本来の河口であり、もっとも下流の橋は永代橋ということになる。

実際、江戸時代においてはそのように解されていた。なお、この頃は、現在の隅田川は、荒川西遷後は荒川の本流であり、西遷前は入間川の本流であった。

しかしでござる。大昔に遡ると、隅田川(当時の入間川かつ利根川)には現在の流路のほか、現在の桜橋の少し上流辺りから南東に向かう流路があり、そちらが本流だった。そして、現在の北十間川辺りが海岸線だった。

その南側は埋立てによって陸地となった地域である。あくまでも本来の河口にこだわるならば、永代橋付近の河口も本来の河口ではなくなり、現在の北十間川よりも北に本来の河口を求めなければならなくなる。そんなことを言っていたら、地球の温暖期においては現在のさいたま市あたりまでが東京湾だったから(古東京湾)、本来の河口は限りなく北方にあった、あるいは河口そのものがなかったという話になってしまう。

そう考えて遡っていくときりがない。現在の河口は現在の地理によって決めてもバチは当たらないだろう。月島が人工島であることについてはどうか?思うに、人工島と言っても、なにも筏を浮かべてるわけでもないし、ひょっこりひょうたん島のように漂流するわけでもない。また、東京都において普通に地面だと思っている土地の多くが埋立地である。しかも、その「人工島」には今や高層マンションがぼこぼこ建っていて内陸となんら変わるところはない。そうであれば、素直に「月島」という名の土地を抜けて広海に出たところを河口と呼び、もっとも下流にある橋は築地大橋ということで良いであろう。これで、心残りなく年が越せるというものである。

下の写真の中央が築地大橋であり、手前が隅田川が河口を抜けて東京湾に出た辺りである。

なお、晴海埠頭と豊洲埠頭をつなぐ橋からは、正面に江戸時代における隅田川の河口辺りが見える。

こうやって見ると、やはり埠頭の辺りは既に海のようにも見える。そもそも、私が、今回の疑問(隅田川の河口はどこ?)を持ったのは、この夜景を見たのがきっかけだった。と言って、また話を蒸し返したいわけではないが、やはり疑問が生じたのもむべなるかな、という感じもする。

 

 

 


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