ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

11 2リーグ制の失敗と新時代到来!

2009年04月13日 09時38分31秒 | ROSSY's HISTORY
  1つの団体を2つのリーグに分け、分断興行を敢行するなんて全女は、実に突拍子もなかった。急な戦略に当然の事ながら、選手数が足りない…急場を新人オーディション受験の不合格者に再度、声を掛け何人かを調達したのである。また、裏口入学の大森ゆかり、長与千種も含めると13人もの新人を大量に入門させてしまったのだ。大森は父親のルートで鏡山親方(元・横綱の柏戸)を後見人に入門。長与は長崎の市会議員を同じく後見人に入ってきた。私は松永社長(会長)に命じられ、二人のテストと称した軽いトレーニングをカメラに収めることになった。この同期はざっと名前を挙げると、北村智子(ライオネス飛鳥)、伊藤浩江(タランチェラ)、奥村ひとみ、師玉美代子、高階由利子、大森ゆかり、長与千種、松本香(ダンプ松本)、本庄ゆかり(クレーン・ユウ)、坂本和恵、新国純子、萩原真理子、長谷部エミ…品質問わず、女子レスラーが生産されていった。
  この2リーグ制は、当然の事ながら入ったばかりの新人がメインやセミに抜てきされることも多くあり、大きなチャンスとなったが、興行のパッケージとしては、厳しいものがあった。S55年7月から始まったこの2リーグ制は、1年間で通算305もの興行を重ねたが、あえなく頓挫した。その後、当時の選手から「年間305試合もやった経験がある…」というコメントが出たことがあったが…これは、2つのリーグを合わせての事で、誤った認識なのである。この1年間は、もっぱら2つのグループは地方や野外興行が中心となっており、然したる話題を提供することは出来なかった。
  S56年に入ると、横田利美が新設された全日本王者となり、2月にはジャッキー佐藤の保持するWWWA世界王座にチャレンジする。2月25日、横浜文化体育館では、3大タイトルマッチが組まれ、横田はジャッキーのWWWAシングルに、ミミ萩原は池下ユミのオール・パシフィク王座に挑んだ。チャンピオンベルトは事務所で管理されていたが、オール・パシフィクのベルトが、試合目前にしてどこかに消えてしまったのである。オール・パシフィクは設立時のS52年には、ハワイアン・パシフィクという名称であったが、ハワイに限定してもと思い、私がオール・パシフィクと変更したものだ。ベルトは探しに探したが、ついぞ見つからなかった。しっかりと保管場所があったわけではない。きっと、何かに紛れてしまったのだろう…苦肉の策で、全日本ジュニアのベルトをオール・パシフィクと偽りタイトルマッチが行われたのだった。これは広報担当として私の失態でもあった。 
  王者は池下ユミだった。池下は確か私と同じ歳だったが、目が悪いのに、眼鏡をしていなかったので眼つきが悪く、その上、人見知りで寡黙だった。そのため“陰”のイメージが強かったし、長くブラック軍団を率いていたため、ほとんど人前に出ることがなかった。素顔の池下は大人しくインドア派で、あまり存在感は感じられなかったが、若手の支持は高かった。地味ながら後輩の面倒見が良かったためだろう。池下に挑戦したミミは、元タレントでデビュー以来、何十連敗をしたことを売り物にしたが、このタイプは得てして「強さ」に憧れを持ち、想像以上の努力をするのが常だった。試合はミミが粘り、瞬時のスモール・パッケージで池下を押さえ、レフェリーのジミー加山こと松永国松(故人)さんは、カウント・スリーを叩いたのだ。これは池下がツーで肩を上げたのだが、死角になっていたのか、タイトルは移動した。(つづく)

▲全女のブレザーを着て。

▲売店でジャッキー佐藤が表紙のパンフを持つ。

▲左の子供は松永正嗣の幼い頃。

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