銀髪鬼、バンパイアの異名をほしいままにしたフレッド・ブラッシーは、プロレス界の名伯楽でもあった。ブレイクしたのが40代を過ぎてからで、西海岸のロス・マットでWWA世界王者になり、力道山のライバルとして日本でも浸透。得意の噛みつきは、TVを見ていた老人がショック死を起こす大事件にもなった。技らしい技は、フィニッシュとして多用したネックブリーカー・ドロップくらい。あとは噛みつきと急所打ちで勝利したものだ。私の記憶にある、ジャイアント馬場のインター王座(昭和44年)、アントニオ猪木のUN王座(昭和46年)に挑戦した頃は全盛期を過ぎていた。
日本人の女性と結婚した大の親日家で、普段は優しいジェントルマン。引退後はWWFでマネジャーとして活躍。日本から遠征したストロング小林やニコリ・ボルコフ、そしてハルク・ホーガンの売り出しに大きな影響を与えたのだ。
日本人の女性と結婚した大の親日家で、普段は優しいジェントルマン。引退後はWWFでマネジャーとして活躍。日本から遠征したストロング小林やニコリ・ボルコフ、そしてハルク・ホーガンの売り出しに大きな影響を与えたのだ。
私は、あのケネディ暗殺事件当日、一般紙もスポーツ紙も皆一面がケネディ一色だったとき、東京スポーツ1紙だけ「ブラッシー血だるま」が一面タイトルだったという、高田文夫氏の述壊が印象に残っています。
ヒールに徹し切ったプロフェッショナルでしたね。