ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

16 プロレス・マスコミ

2009年05月09日 09時38分38秒 | ROSSY's HISTORY
  広報担当だか芸能担当だか区別が付かないほど、いろいろな仕事をやってきたが、クラッシュ・ギャルズが本格的に活躍するまで、女子プロレス(=全女)はプロレス・マスコミが扱わないジャンルとなっていた。それでも私はデラックス・プロレスの誌面を使って、1ページずつページを増やしていく作業から始めていた。当時の編集長だった山本さん(ターザン山本!)に女子プロレスの誌面拡大をお願いすると、「取材する者がいないから、自分で原稿と写真を持参すれば載せられる…」と言われ、デラプロ向きの企画を考えたものだ。編集長が山本さんから原田浩さんに代わってからも、沖縄遠征に行きビーチで選手の水着姿を撮影し、誌面を飾ったこともあった。
  しかし1度、フジテレビとベースボール・マガジン社のカメラマン同士がリングサイドで取っ組み合いの乱闘?を始めてしまい、大きなトラブルに巻き込まれたことがあった。フジテレビ側からすれば、ほぼ独占状態で女子プロレスの情報を流している実績がある。この時代、紙媒体は確かに目立った報道は無く、フジテレビの制作サイドは我がもの顔。この時は原田さんから「フジテレビから謝罪が無いので、今後一切(デラプロの)誌面には載せない!」という通達を受けてしまったのだ。せっかく、コツコツと実績を積み上げてきた矢先に…この出来事は私の心に強く沁みたものだ。このトラブルに巻き込まれたベースボール・マガジン側のカメラマンとは誰あろう、当時はアルバイトとして編集の仕事を手伝っていた、現在のパンクラス尾崎社長だったのだ。
  唯一の専門誌媒体を失うことになり、私はあたふたした。これからクラッシュを売り出す、そんな矢先に…だが日本スポーツ企画出版社が新しくエキサイティング・プロレスを創刊することになり、女子プロレスの記事も扱うかことになったのだ。後にゴングの名物記者となった原“珍獣”記者とも、この雑誌で知り合ったことになる。私より4歳年下の原さんは、当時から異色のユニークな個性を爆発していた。クラッシュ・ギャルズは長与千種とロッシー小川のプロレス頭の合作だったと自負しているが、リング上に“空手”というキーワードを取り入れたのは、山崎照朝氏の功績だ。山崎さんはかつて、“極真の龍”と呼ばれた実力者で、第1回全日本選手権の優勝者でキック・ボクシングでもNET(現テレビ朝日)のエース的存在だった。山崎さんのような名のある空手家は、得てして道場を持ち商業ベースで空手を利用するのが常だが、それをせずに、あくまでも武道の精神を貫いていた。
  昭和58年7月、伊豆での合宿では山崎さんが、千種と飛鳥に対しマンツーマンで特訓したことがまるで昨日のように、私自身も記憶に残っているのだ。午前、午後の練習を終えると今度は部屋の中での練習が始まる。畳の上に空手着を纏った3人が、型の練習をしている。私はこの練習の全行程を見ていたので、どういった経路でクラッシュが空手を修得していったか、誰よりも判っていたのだ。合宿の最終日は台風が近づいていて、朝から雨が強く降っていた。山崎さんは、それでも練習を止めず海辺をランニングしたり、型の稽古に時間を費やしていた。最後は岩場の上に乗り、息吹と呼ばれる空手流の呼吸法を教えていた。千種も飛鳥も真摯な態度でこの合宿を乗り切ることにより、それまで存在しなかった絆が芽生えたのである。山崎さんもこの時、36歳の男盛り。まだまだ体力も気力も充実の境地だった。私もこの合宿により、山崎シンパになったのは言うまでもない。 (つづく)

▲クラッシュ結成前にファン・イベントに出演。

▲月刊プロレス編集部にてルー・テーズと集合写真。テーズの右手前が若き日の尾崎さんだ。

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