1971年3月10日生まれ、米国フロリダ州オーランド出身。168cm、65㎏ (得意技)エース・クラッシャー、STF
アメリカから全女にやって来た初めてのプロレス留学生。ランドーレイクの消防隊でボランティア活動をしていたが、89年に名門マレンコ道場に入門。ラリー・マレンコと空中正三のコーチを受け、90年にレスラーとしてデビューした。
「マレンコ道場に女の子がいるよ」という話をアメプロ通の斉藤文彦君から聞いた私は、興味を抱いたが…その後、神様カール・ゴッチと一緒に練習をしている写真を眼にして、一発で来日を決めたのだ。現地でのリングネームはデビー・ドレークといったが、この名前では地味すぎると判断。斉藤君にラリー・マレンコに許可を取ってもらい、デビー・マレンコとこちらで名前を付けてしまったのだ。イメージは、サブミッション・プリンセス。マレンコ兄弟の女版だ。
来日したデビーはいかにも田舎にいる女子大生という感じだった。試合ぶりは予想通りベーシックなグラウンドを基調としたクラッシックなチェーン・レスリング。当時、このようなスタイルはまだ受け入れられる土壌がなかったが、デビーの動きは玄人好み。私はデビーと同世代の長谷川咲恵を組ませ、“日米新世代コンビ”を名乗らせたが、モチーフは小橋健太&ジョニー・エースだった。このチームは新鮮さがあり、決めのポーズはスタイナー・ブラザースばり。瞬く間に人気が急上昇し、全日本タッグ王座を奪取した。FMWの土屋&前泊との闘いは、全女とFMWのリング外の抗争に巻き込まれたが、デビーは見事に全女の看板を背負って挑んでくれたのだ。何だか、そんなデビーを愛おしく思った観客は多かったと思う。2年間滞在したが、右足を関節脱臼し帰国。私はデビーに入院費を送金したが、それからデビーが日本に戻ってプロレスを再開することはなかった。
それから約8年の月日が流れた。私は当時、アルシオンを運営していたが、NKホールで開催するビッグマッチの企画として、ニューヨークのテロの義援金を募ることを考えたのだ。そこでデビーに来日してもらい、バイオニックJとエキシビジョンマッチを画策した。幸い、デビーの連絡先はアメリカの知人から入手していたから、後はJに交渉窓口になってもらい話を進めていった。デビーは即OKを出してくれた。しかし、大会を3週間前に控え、パスポートが期限切れをしていることに気が付き、慌ててパスポートを取ってもらい来日をさせた。
デビーにとって8年ぶりの日本。すっかり落ち着いた雰囲気になったが、帰国後はプロレス界から足を洗っていた。結婚して二児の母となっていたデビーだが、体型は現役時代のまま。デビーはたった5分間のエキシビジョンマッチのために日本に来てくれたのだ。注目のエキシビジョン5分間は短く、4泊6日の旅はあっという間に過ぎて行った。あれから、また7年も経った。37歳になったデビーは、どうしているのだろうか…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/40/6a5f031464354f22194b23fef612980d.jpg)
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アメリカから全女にやって来た初めてのプロレス留学生。ランドーレイクの消防隊でボランティア活動をしていたが、89年に名門マレンコ道場に入門。ラリー・マレンコと空中正三のコーチを受け、90年にレスラーとしてデビューした。
「マレンコ道場に女の子がいるよ」という話をアメプロ通の斉藤文彦君から聞いた私は、興味を抱いたが…その後、神様カール・ゴッチと一緒に練習をしている写真を眼にして、一発で来日を決めたのだ。現地でのリングネームはデビー・ドレークといったが、この名前では地味すぎると判断。斉藤君にラリー・マレンコに許可を取ってもらい、デビー・マレンコとこちらで名前を付けてしまったのだ。イメージは、サブミッション・プリンセス。マレンコ兄弟の女版だ。
来日したデビーはいかにも田舎にいる女子大生という感じだった。試合ぶりは予想通りベーシックなグラウンドを基調としたクラッシックなチェーン・レスリング。当時、このようなスタイルはまだ受け入れられる土壌がなかったが、デビーの動きは玄人好み。私はデビーと同世代の長谷川咲恵を組ませ、“日米新世代コンビ”を名乗らせたが、モチーフは小橋健太&ジョニー・エースだった。このチームは新鮮さがあり、決めのポーズはスタイナー・ブラザースばり。瞬く間に人気が急上昇し、全日本タッグ王座を奪取した。FMWの土屋&前泊との闘いは、全女とFMWのリング外の抗争に巻き込まれたが、デビーは見事に全女の看板を背負って挑んでくれたのだ。何だか、そんなデビーを愛おしく思った観客は多かったと思う。2年間滞在したが、右足を関節脱臼し帰国。私はデビーに入院費を送金したが、それからデビーが日本に戻ってプロレスを再開することはなかった。
それから約8年の月日が流れた。私は当時、アルシオンを運営していたが、NKホールで開催するビッグマッチの企画として、ニューヨークのテロの義援金を募ることを考えたのだ。そこでデビーに来日してもらい、バイオニックJとエキシビジョンマッチを画策した。幸い、デビーの連絡先はアメリカの知人から入手していたから、後はJに交渉窓口になってもらい話を進めていった。デビーは即OKを出してくれた。しかし、大会を3週間前に控え、パスポートが期限切れをしていることに気が付き、慌ててパスポートを取ってもらい来日をさせた。
デビーにとって8年ぶりの日本。すっかり落ち着いた雰囲気になったが、帰国後はプロレス界から足を洗っていた。結婚して二児の母となっていたデビーだが、体型は現役時代のまま。デビーはたった5分間のエキシビジョンマッチのために日本に来てくれたのだ。注目のエキシビジョン5分間は短く、4泊6日の旅はあっという間に過ぎて行った。あれから、また7年も経った。37歳になったデビーは、どうしているのだろうか…。
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