ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

<連載>女子ガイコク人列伝 

2008年11月12日 16時14分45秒 | 女子ガイコク人列伝
  ロッシー小川が業界歴30年の間に関った外国人女子レスラーを紹介するコラムです。古今東西から総登場…レディリン・モバイルで掲載したものをアレンジしました。

(第1話)ザ・ファビュラス・ムーラ
 1923年7月22日生まれ、米国サウスカロライナ州コロンビア出身。158cm、58kg  (得意技)ジャックナイフ
 私が初めて名前を覚えた外国人女子レスラーが、ザ・ファビュラス・ムーラだ。1956年に世界王者になっているから、私が生まれた年より1年も早い計算になる。もう、この世界の人間国宝的存在なのだ。
 初来日したのが、68年の日本女子プロレスで、ムーラはこの時すでに40代後半だった。その模様が月刊ゴングの創刊号にグラビアが掲載されており、それを見て私は女子プロレスそのものの存在と、ムーラを知ったわけだ。その顔は眉毛に特徴があり、まるでハリウッド女優のエリザベス・テーラーのような雰囲気。翌年には再来日し、この時はテレビ東京が本格的に女子プロレスの放送を開始しており、実際のファイトを見ることができた。少年の私からすれば、母親よりも年配であり、実在する魔女のような異様さに映った。
 必殺技はジャックナイフ。卑劣な反則攻撃の間隙を誘って、倒れた相手の両足を持ってクルリと半回転する。これは絶妙のタイミングで、百発百中。必ずフォールを奪っていた。強いのだか、弱いのだかよく分からないが、勝つのは決まってムーラだった。
 その後、74年に国際プロレスに参戦。女子部が設立され、小畑千代らと対戦。姥桜同士の闘いは、正直見るのが辛かったが、ムーラはとても毅然としていた。
 全女には79年に初来日したが、この時はプレーイング・マネジャーのような立場で、ミミ萩原とエキシビジョンマッチ、ナンシー久美の挑戦を受けたNWA世界王座の防衛戦と2試合のみ行ったのだ。ムーラは渉外担当者にさえ、パスポートをけして見せなかったが、私は幸運? にも見る機会があった。それは帰国の際、空港到着が遅れ、慌ててチェックインをすることになり、見送りに付き添った私は選手全員のパスポートを預かり、すかさずムーラの年齢を拝見したのだ。1923年生まれだったから、その時点で56歳だった。
 ムーラは60年代から80年代にかけて、唯一の統一王者だった。NWAエリアに行けば、NWA世界王者、WWWF(現WWE)ではWWWF世界王者、AWA地区ではAWA世界王者をそれぞれ名乗っていた。それだけムーラは全米中に顔と名前が通っていたし、どのプロモーターもムーラから見ればボーイに過ぎなかったのだろう。ムーラは70歳を過ぎても80歳を過ぎても、時々試合をしない役どころでリングに上がっていた。WWEのビンス・マクマホンはレジェンドのムーラをリスペクトし、適役のポジションを与えているから凄い才覚の持ち主と言えよう。
 ムーラが生まれ住んだサウス・カロライナ州コロンビアには、「ムーラ・ドライブ」という道路があったほど、地元では名士であり、多くの女子レスラーを輩出した。そんなムーラも07年11月2日に84歳で他界。大往生の最期だったがムーラの名は永久不滅、アメリカ女子プロレスの伝説なのだ。

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