国松さんは松永4兄弟の3番目で、巡業の責任者いわゆるロード・マネジャーを30年以上も行っていた。松永会長が水戸黄門なら、国松さんは4男の俊国さんと助さん・格さんのような立ち位置と言えばいいだろう。強面だが、無類のお人好しで嘘の付けない優しい人だった。だから選手はみんな国松さんを師事していた。鬼コーチも兼ねていたから、そう、例えるならボクシング・ジムの会長かトレーナーにほど近く、丹下段平みたいな無骨な感じだった。
そういえば領収書に数字の0を一つ加え、経理に怒られていたことがあった。これは国松さんらしいエピソードで、国松さんでなければ経理は怒れなかった。それだけの人徳があった。
長らく全女のマッチメークを担当していたが、昔は団体内での闘いでしかなかったから、マンネリを通り越した定番カードをいくつも作ってきた。クラッシュ時代から私は国松さんにアイデアを提供し「ジャパン・グランプリ」や「タッグリーグ・ザ・ベスト」の公式戦は私が提言してスタートした。そのうち国松さんは、私の企画をそっくり採用し、自分が考えたように兄弟たちに推し進めた。
団体対抗戦の時代は私が各団体の窓口となり、ほぼリードしてきた。国松さんは他団体の選手をいかに活かすかを考え、思い切ったマッチメークを組み、他の兄弟から責められていたこともあった。それが例え私のアイデアでも、けして人のせいにはしないで自ら耐えていたのだ。国松さんは忍耐の人だった。
最後は全女の社長という要職にいたが、2005年に解散後すぐに自殺してこの世を去ってしまった。解散の責任を取っての自戒だったのだ。全女と共に生き、全女と共に生涯を終えた。本当の意味でミスター全女だったのだ。
そういえば領収書に数字の0を一つ加え、経理に怒られていたことがあった。これは国松さんらしいエピソードで、国松さんでなければ経理は怒れなかった。それだけの人徳があった。
長らく全女のマッチメークを担当していたが、昔は団体内での闘いでしかなかったから、マンネリを通り越した定番カードをいくつも作ってきた。クラッシュ時代から私は国松さんにアイデアを提供し「ジャパン・グランプリ」や「タッグリーグ・ザ・ベスト」の公式戦は私が提言してスタートした。そのうち国松さんは、私の企画をそっくり採用し、自分が考えたように兄弟たちに推し進めた。
団体対抗戦の時代は私が各団体の窓口となり、ほぼリードしてきた。国松さんは他団体の選手をいかに活かすかを考え、思い切ったマッチメークを組み、他の兄弟から責められていたこともあった。それが例え私のアイデアでも、けして人のせいにはしないで自ら耐えていたのだ。国松さんは忍耐の人だった。
最後は全女の社長という要職にいたが、2005年に解散後すぐに自殺してこの世を去ってしまった。解散の責任を取っての自戒だったのだ。全女と共に生き、全女と共に生涯を終えた。本当の意味でミスター全女だったのだ。