ロッシー小川ブログ  MY FAVORITE LIFE

女子プロレス、ルチャ・リブレ、レトロなどなど、プロレス人生を謳歌するロッシー小川の仕事や趣味について大公開!!

15 ジャガーvsギャラクティカ

2009年05月02日 08時40分25秒 | ROSSY's HISTORY
  ジャガー横田、デビル雅美、ミミ萩原のトロイカ体制は、昭和56~59年までの約3年間、全女マットを衰退させることなく継続させていった。3人とも爆発的な人気は出なかったが、なんとか話題を繋いできた。ジャッキー佐藤に引導を渡したジャガーだが、その後は2年2カ月間に及びWWWA世界シングル王座を守っていった。ペギー・リー、ダイアン・ホフマン、ジュディ・マーチン、モンスター・リッパー、ウェンディ・リヒターといった外国人レスラーをことごとく退けてきたが、そのジャガーにストップを掛けたのがメキシコのラ・ギャラクティカだった。このギャラクティカはS56年8月に、ラス・ギャラクティカス(1号&2号)として来日。ギャラクシーのメキシコ版を名乗り、“宇宙仮面”とも称されたが、1号がパンテラ・スレーニャ、2号はレイナ・ガレゴスがその正体。ジャガーからWWWA世界王座を強奪したのは1号の方で、S58年5月、川崎市体育館におけるタイトルマッチの出来事だった。
  この試合にはジャガーの髪の毛と、ギャラクティカの覆面が賭けられることになり、ここに日本初の“マスカラ・コントラ・カベジェラ”が実現したのである。会場にはUWAのカルロス・マイネス代表も現れ、ギャラクティカのセコンドにはメキシコでの僚友、モンスター・リッパーが付いたが、これが試合そのものを支配してしまうとは…試合展開は終始モンスターの乱入により、ジャガーは大苦戦。結局、モンスターがコーナーからダイビング・ヒップドロップ、続いてギャラクティカがダイビング・セントーンを決め電撃フォール勝ち。敗れたジャガーはモンスターに無理やり椅子に押さえつけられ、ハサミで髪をズタズタに切ってしまったのだ。不本意ながら敗れたジャガーは控室で、五分刈りの坊主頭に丸めてしまったのである。
  だが、再戦は1カ月も経たないうちに訪れた。大宮スケートセンターでジャガーは、女子プロレス初公開のジャーマン・スープレックス・ホールドを爆発させ、王座を奪回したのだ。ついでに覆面も剥いだのだが、ギャラクティカは顔を隠して控室に逃げ帰ってしまったのだ。この時の戦利品の血のついた覆面は、ギャラクティカより譲ってもらい私のコレクションの一つになっている。今から26年も前の覆面だから、かなり消耗しているがラメの部分は輝きを失ってはいない。
  ジャガーは1年後には同じギャラクティカにクロスアーム式のジャガー・スープレックスを初披露し、UWA世界王座を奪取し、WWWAと合わせて2冠王に輝いているのだ。素顔のパンテラ・スレーニャはジャガーがデビューした77年に初来日し、日本マットでは約10年間に及び活躍していたルチャドーラ。私は90年代前半によくメキシコに出向いたが、パンテラはマルタ・ビジャレボスとのコンビでルーダとして暴れていた。1952年生まれだから、もう57歳。アレナ・メヒコの近くにある、ホテル・プエブラから程近いアパートに住んでいたが…。去年の9月に5年ぶりに故郷のグアダラハラから、メキシコシティに戻り、今でも時折り試合をしているみたいだ。
  そうこうしているうちに、人気面では、後輩のライオネス飛鳥&長与千種が台頭。“女・革命戦士”クラッシュ・ギャルズを名乗り、降臨してきたのだった。飛鳥と千種は後楽園ホールで初めてタッグを組んだ日に、いきなり紙テープが舞い込んだ。前日までは、紙テープが1本も飛ばない存在だったが、後楽園では熱狂的なファンに迎えられたのだった。(つづく)

▲これが”宇宙仮面”ラス・ギャラクティカス。

▲ギャラクティカの勝利に、UWA会長カルロス・マイネスも祝福。

▲これは貴重なソリタリオとのツーショット(昭和56年に撮影)。

▲若き日のブラソスと。

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