1956年4月21日生まれ、米国ジョージア州サバンナ出身 160cm、63kg(得意技)ドロップキック
ひと昔前のアメリカ・マット界で、ひと際その実力と美しさが際立っていたのがビッキー・ウイリアムスだ。いわゆるベアフット(裸足)の選手で、70年代から80年代にかけて活躍し、ジョイス・グレーブルとは長らく世界タッグ王座に君臨。あのJBエンジェルスも巻いた同じベルトだが、当時は世界タッグと言えばこのベルトを指していた。
初来日は74年11月、国際プロレスの女子部だった。高校生だった私は、国際プロレスに来日した外国人選手の宿泊するホテル高輪に出向き、初対面した。この時、彼女たちは一介のプロレス少年のために、わざわざコスチュームに着替えてくれて、沢山の写真を撮らせてもらったが…それも、もう34年も前になる。この初来日では小畑千代、佐倉輝美が相手で実力を存分に披露できずにいたが、2度目の来日では真価を発揮してくれた。
全女が放った一大企画「日米対抗リーグ戦」でアメリカ軍のエースとして登場。開幕戦で日本側のトップであるジャッキー佐藤を撃破。優勝戦に駒を進め、ジャッキーに今度は敗れたものの、アメリカ軍が団体優勝する原動力に貢献したのだった。このシリーズはムーラを始め、ジョイス、ジュディ・マーチン、若き日のレイ・ラニ・カイもいた。来日はこの2回のみ。ビッキーは前後して、メキシコ遠征しており、UWAマットに参戦。初代王者を奪取した実績が残っている。ビッキーはいわゆるメキシコ人にとっての外敵。UWAはアメリカ、日本などの外国人をルーダ(ヒール)にして、格好の敵役にしていた。エステラ・モリーナ(エベリア・ペレスの名で来日)、チャべラ・ロメロ、ローラ・ゴンザレスとの死闘は有名で流血戦を繰り返しているほどだ。
最近、メキシコであるルチャの写真集を手にしたが、そこにはビッキーの写真が何枚も掲載され、激戦を物語る足跡があったのだ。得意技はドロップキック。ベアフットで蹴り上げる姿は、勇ましく、凛々しかったと記憶する。女子の出場を認めなかったMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)も、ビッキーとムーラの闘いで解禁。以降は米マット界でも、大舞台で女子の存在が認められてきた。その先駆けの役目をしたのがムーラであり、弟子のビッキーであったのだ。