全女の専属カメラマンになったばかりの私に、朗報が舞い込んだ。「12月にグアムで興行があるんだけど、撮影に来てほしい」と松永社長から撮影依頼がきたのだ。当時20歳、海外に行ったことなど無く、「こんな重要な仕事を任されて、大丈夫だろうか…」と、プレッシャーを感じたが要望には応えなければならない。カメラマンの仕事では、試合などを撮影したポジフィルムを現像して事務所に持参していくたびに、5万円のギャラを貰っていた。今から30年以上前の5万円は、今なら幾らに相当するだろうか…学生の身分で5万円は、大金だった。ビューティ・ペアのブームの渦中だけに、気風も良かったわけだ。
グアム島ツアーは、ビューティ・ペアを始め、赤城マリ子、池下ユミ、ナンシー久美、ビクトリア富士美ら一部の新人を除く、大半のメンバーが帯同した。グアムまでのフライトは3時間。具体的に撮影内容を聞いてはいなかったので、歩いている所から、ありとあらゆる場面でシャッターを切っていった。選手のツアーに同行し、朝から晩まで行動を共にするのは始めてだ。人間関係も出来ていないし、性格も分からないから緊張の連続だった。この年にデビューしたばかりの横田利美(ジャガー横田)や冨高千賀子(トミー青山)が比較的、話し相手になってくれたので、少しは助かった。
グアム島ツアーは興行としては同じ場所で2大会行われたが、プロモーターがいての売り興行ではなく、完全に自主興行だった。営業部の宮本和則さんが1カ月前から、現地に乗り込みポスター張りを中心とした営業活動をしていたという。国内では、ほとんど売り興行のため、営業部は事務所に居る機会が多いため、1カ月間以上の海外出張が可能だったわけだ。日本からもファンクラブのツアーで200人以上が駆けつけたため、会場の雰囲気は完全に日本と一緒。現地の人々も大勢観戦に来て、興行は大成功で終了した。松永兄弟は家族総出で、慰安旅行の雰囲気であった。
帰国後、グアムでのフィルムを持っていくと、今度は10万円のギャラを即金で貰うことになった。なんと羽振りがいいのだろうか。事務所のスタッフでビューティ・ペアの芸能を担当していた吉田正行さんが、大変良くしてくれ「就職どうするんだ?そんなにプロレスが好きなら、うちの会社に入れば…」と全女入社を誘ってくれたのである。私は写真専門学校の卒業を間近に控えていたが、就職のことなど全く考えてはいなかった。「うちの会社は就職試験なんか無いから毎日、事務所に通って何か仕事をしていれば自然のうちに入れるから…」と今考えると、本当に無責任な言葉を貰い、全女に通う日々が敢行されたのだ。
実家の千葉から毎日、東京の目黒に通う。事務所では、勝手に席に座りチケット作りを手伝ったり、ビューティ・ペアの芸能活動のアシスタントをしたりetc…それは、それは毎日が物珍しくて刺激的だった。午後6時になると、事務所の冷蔵庫からビールを出し、一杯引っ掛けてからスタッフは夜の街に繰り出した。近所の焼き鳥屋で軽く腹に入れてから、目黒駅前のグランド・キャバレー「ニュー高石」で遊び、時計の針が午前になると、行きつけのスナックで飲みなおす。キャバクラではなく、キャバレーというのが時代を物語る。週に3~4度、ほとんど毎日のように夜遊びばかり。松永社長もまだ若く、いつも10人位で目黒の街を闊歩した。おそらく、一晩で30万円以上の豪遊をしていたことになる。ビューティ・ペアで好景気、他団体の存在も無く、まさに全女は女子プロレスを独占していった。(つづく)
▲グアム島でビュティー・ペアとスリーショット。
▲池下ユミと…長髪、口髭は70年台の主流ファッション?
グアム島ツアーは、ビューティ・ペアを始め、赤城マリ子、池下ユミ、ナンシー久美、ビクトリア富士美ら一部の新人を除く、大半のメンバーが帯同した。グアムまでのフライトは3時間。具体的に撮影内容を聞いてはいなかったので、歩いている所から、ありとあらゆる場面でシャッターを切っていった。選手のツアーに同行し、朝から晩まで行動を共にするのは始めてだ。人間関係も出来ていないし、性格も分からないから緊張の連続だった。この年にデビューしたばかりの横田利美(ジャガー横田)や冨高千賀子(トミー青山)が比較的、話し相手になってくれたので、少しは助かった。
グアム島ツアーは興行としては同じ場所で2大会行われたが、プロモーターがいての売り興行ではなく、完全に自主興行だった。営業部の宮本和則さんが1カ月前から、現地に乗り込みポスター張りを中心とした営業活動をしていたという。国内では、ほとんど売り興行のため、営業部は事務所に居る機会が多いため、1カ月間以上の海外出張が可能だったわけだ。日本からもファンクラブのツアーで200人以上が駆けつけたため、会場の雰囲気は完全に日本と一緒。現地の人々も大勢観戦に来て、興行は大成功で終了した。松永兄弟は家族総出で、慰安旅行の雰囲気であった。
帰国後、グアムでのフィルムを持っていくと、今度は10万円のギャラを即金で貰うことになった。なんと羽振りがいいのだろうか。事務所のスタッフでビューティ・ペアの芸能を担当していた吉田正行さんが、大変良くしてくれ「就職どうするんだ?そんなにプロレスが好きなら、うちの会社に入れば…」と全女入社を誘ってくれたのである。私は写真専門学校の卒業を間近に控えていたが、就職のことなど全く考えてはいなかった。「うちの会社は就職試験なんか無いから毎日、事務所に通って何か仕事をしていれば自然のうちに入れるから…」と今考えると、本当に無責任な言葉を貰い、全女に通う日々が敢行されたのだ。
実家の千葉から毎日、東京の目黒に通う。事務所では、勝手に席に座りチケット作りを手伝ったり、ビューティ・ペアの芸能活動のアシスタントをしたりetc…それは、それは毎日が物珍しくて刺激的だった。午後6時になると、事務所の冷蔵庫からビールを出し、一杯引っ掛けてからスタッフは夜の街に繰り出した。近所の焼き鳥屋で軽く腹に入れてから、目黒駅前のグランド・キャバレー「ニュー高石」で遊び、時計の針が午前になると、行きつけのスナックで飲みなおす。キャバクラではなく、キャバレーというのが時代を物語る。週に3~4度、ほとんど毎日のように夜遊びばかり。松永社長もまだ若く、いつも10人位で目黒の街を闊歩した。おそらく、一晩で30万円以上の豪遊をしていたことになる。ビューティ・ペアで好景気、他団体の存在も無く、まさに全女は女子プロレスを独占していった。(つづく)
▲グアム島でビュティー・ペアとスリーショット。
▲池下ユミと…長髪、口髭は70年台の主流ファッション?