1958年2月8日生まれ、米国ルイジアナ州ニューオリンズ出身。170cm、68kg (得意技)フライング・ラリアット
去る6月15日(現地時間)に他界したシェリーは、満49歳という若さでの訃報だった。いわば私とは同世代であり、このニュースを知った時はまるで同級生が亡くなったような淋しさを感じたものだ。
初来日は82年1月の全女「新春チャンピオン・シリーズ」だった。この時はジュディ・マーチンと共に参戦。そういえば、シェリーとは1度だけ、彼女の希望で六本木にあるディスコ「クレージーホース」に行ったことがあった。共に20代の若さだったこともあり、飲んで踊って、宿泊するホテルに送った時は二人ともかなり酔っ払っていたものだ。私はけしてディスコが好きだったわけではないが、来日外国人のサポートも行っていたから、これも仕事のうち。意気投合して、何度か飲みに行ったこともあった。
シェリーには、ジャレッドという1人息子がいて、何でもタイガーマスクのファンという。私はレプリカのマスクをプレゼントしたら、ジャレッドがマスクを被ったポラロイド写真をエアメールで送ってくれたこともあった。何度か手紙のやりとりをしたが、「ムーラのところを辞めて、フリーになる…」という連絡ももらったものだ。そのうちにAWAに移って世界チャンピオンになった情報も入ってきた。
2度目の来日は、86年10月にジャパン女子プロレスだった。この時はすれ違いで逢うことは出来なかったが…90年の4月にはWWFの「日米レスリング・サミット」に参加。“マッチョマン”ランディ・サベージのマネジャーとして、レスラーとはまた違った勇姿を見せてくれたのだ。その名もセンセーショナル・シェリー。妖艶で憎たらしいヒールとなったシェリーは、ファビュラス・ムーラを破ってWWF世界女子王座にも君臨した。その後はWCWで、ハーレム・ヒートのマネジャーを務めたりしたが、一昨年WWEの「ホール・オブ・フェーム」では、偉大なるレジェンドとして表彰されもしたのだ。
私がシェリーと最後に逢ったのは、05年3月だ。それも週刊プロレ編集部で偶然の再会だった。シェリーは何度目かの結婚をして、新婚旅行のため日本に寄ったのだが、ZERO1-MAXとの折衝も兼ねてのものだったという。シェリーをエージェントにして、日本で女子のアメプロを本格的にやろうという計画もあった。シェリーは私の顔を見て最初はわからなかったが、名前を言うと絶句し、涙を流して喜んでくれた。23年ぶりの再会だから、お互いに風貌が変ってしまったのは時の流れだ。
その後はシェリーの日本サイドのエージェントと何度か、話をしてシェリーの近況を聞いたりもした。長年のプロレス生活のため、腰が相当悪化していたみたいだが、日本で再び会える日を楽しみにしていたようだ。そんな話を聞いていたから、訃報のニュースを聞いた時は本当に驚いたものだ。
去る6月15日(現地時間)に他界したシェリーは、満49歳という若さでの訃報だった。いわば私とは同世代であり、このニュースを知った時はまるで同級生が亡くなったような淋しさを感じたものだ。
初来日は82年1月の全女「新春チャンピオン・シリーズ」だった。この時はジュディ・マーチンと共に参戦。そういえば、シェリーとは1度だけ、彼女の希望で六本木にあるディスコ「クレージーホース」に行ったことがあった。共に20代の若さだったこともあり、飲んで踊って、宿泊するホテルに送った時は二人ともかなり酔っ払っていたものだ。私はけしてディスコが好きだったわけではないが、来日外国人のサポートも行っていたから、これも仕事のうち。意気投合して、何度か飲みに行ったこともあった。
シェリーには、ジャレッドという1人息子がいて、何でもタイガーマスクのファンという。私はレプリカのマスクをプレゼントしたら、ジャレッドがマスクを被ったポラロイド写真をエアメールで送ってくれたこともあった。何度か手紙のやりとりをしたが、「ムーラのところを辞めて、フリーになる…」という連絡ももらったものだ。そのうちにAWAに移って世界チャンピオンになった情報も入ってきた。
2度目の来日は、86年10月にジャパン女子プロレスだった。この時はすれ違いで逢うことは出来なかったが…90年の4月にはWWFの「日米レスリング・サミット」に参加。“マッチョマン”ランディ・サベージのマネジャーとして、レスラーとはまた違った勇姿を見せてくれたのだ。その名もセンセーショナル・シェリー。妖艶で憎たらしいヒールとなったシェリーは、ファビュラス・ムーラを破ってWWF世界女子王座にも君臨した。その後はWCWで、ハーレム・ヒートのマネジャーを務めたりしたが、一昨年WWEの「ホール・オブ・フェーム」では、偉大なるレジェンドとして表彰されもしたのだ。
私がシェリーと最後に逢ったのは、05年3月だ。それも週刊プロレ編集部で偶然の再会だった。シェリーは何度目かの結婚をして、新婚旅行のため日本に寄ったのだが、ZERO1-MAXとの折衝も兼ねてのものだったという。シェリーをエージェントにして、日本で女子のアメプロを本格的にやろうという計画もあった。シェリーは私の顔を見て最初はわからなかったが、名前を言うと絶句し、涙を流して喜んでくれた。23年ぶりの再会だから、お互いに風貌が変ってしまったのは時の流れだ。
その後はシェリーの日本サイドのエージェントと何度か、話をしてシェリーの近況を聞いたりもした。長年のプロレス生活のため、腰が相当悪化していたみたいだが、日本で再び会える日を楽しみにしていたようだ。そんな話を聞いていたから、訃報のニュースを聞いた時は本当に驚いたものだ。