私の再出発

再出発しなければならないのは私だけではなく、日本を始め世界だと気付きました・・・。

夢の1つを実現

2011-08-26 01:22:24 | 私のこと
母のところに引越して来て、もうすぐ1ヶ月・・・だと言うのに、言い争いは数知れず

今日も最初は普通にお喋りをしてたのに、母の一言でカチンと来てしまい、そこから

言い争い。

・・・と書き始めたら、又グチブログになりそうになったので、削除して書き直し

引越して落ち着いたら「やらなくてはならない」と思ってたこと、「やる」と決めてたこと。

「やらなくてはならない」ことは「仕事」で、今度の日曜に入る折込の求人広告に期待。

「やる」と決めてたことは「ステンドグラス教室」に通うこと。

実は24日に旦那のボーナス(1ヶ月分だけど)が出た。

なんでこんな中途半端な時期に中途半端な金額のボーナスを出すのか

前にもブログに書いたけど、年俸制から月給制に戻って、ボーナスが復活したけど、

年収自体を50万減、ボーナスを夏冬2ヶ月分なので、

(去年の年収-50)÷16=極端に少なくなっって大変!!

と言うことで、冬のボーナスを1ヶ月分前倒しして支給。

たった1ヶ月分なので金額も大したこともないし、ボーナスのありがたみというのが

全く感じられないのも、何だか悲しいような・・・。

だけど、翌25日も少なくなったけど(先月までは臨時出勤やら交代勤務で給料が

良かった)お給料日なので、思い切って、後先のことは敢えて考えず、考えると又

何もできずに終わってしまうから!!

引越し前にチェックしてあった、市内のカルチャーセンターに行き、申し込んできた。

入会金と3ヶ月の月謝を前払い!!

ついでに(?)次男にお小遣い1万円あげて、大盤振る舞い

次男「いいの?貰っちゃって?」

私「いいの、いいの!!ママが稼いだお金じゃないし、おじさん(旦那のこと)の

ボーナスだから!!」

次男「

次男にお小遣いを渡しておくと、後でとっても便利。

お給料日前のピンチの時に借りられるから


ステンドグラス教室は9月からで月に2回。

どんな作品ができるのか、今からとっても楽しみ

他に水彩画とか油絵とかパステル画などの興味のある教室がたくさんあったけど、

とにかく一番やりたいことからやることに。

だって人生は有限だってことをつくづく思ったから。


仕事も頑張って探して、1日も早く働きに出たい!!

仕事に出れば忙しくなって、母と喧嘩してる時間もなくなるだろうし、母に助けて貰う

ことも増えれば(今でも助けて貰ってはいるんだけど)感謝することも多くなるし、

もしかしたら優しくなれるかもしれない・・・

お金が貯まったら、1日も早くここから引越して、少し離れたところで母と付き合って

いくことがお互いのためでもあるから



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ふんりゅうではなかった!?

2011-08-24 02:21:47 | 日記
以前、このブログで「ふんりゅう親子」(2009・12・19)と言うタイトルで

ふんりゅうのことを書いて、病院に行って取って貰う!!と言ってたくせに

その後、そのことには全く触れず、そのままになってしまいましたが・・・。

今日は、その後のことを書きます・・・。


次男の通院してた皮膚科の医師に、市内の総合病院の形成外科を紹介

すると言われたけど、その病院は眼科で通院していて、いつも物凄く混雑

してるから、そこには行きたくなかったので、自分で病院を探すことにした

けど、個人病院で形成外科は見つからず。

仕方なく、少し前に予防接種でお世話になった外科に電話を入れて確認

してから行った。

次男の顔にできたふんりゅうがいくつかあって、その費用と、どんな感じで

取るのか、私の耳の裏のふんりゅうは後回しにして様子をみることにした。

診察室に呼ばれ、次男と共に行ってみると、医師の裏に4人の看護師さん

全員が並んでいる中、通院している皮膚科でふんりゅうを取った方が良い

と言われたので来たこと、目の手術をしていることなどを話した。

すると、その医師は、顔にメスをいれるのは避けたい、食べ物に気を付けて

いけば良くなるからと言って、結局、何もせずに帰って来てしまった。

食べ物に気を付けることなど、いろいろとアドバイスしてくれている中で

母親である私が「実は私の耳の裏にも・・・」なんて言い出すこともできず。

看護師さん4人も並んでいる中で耳の裏のできものを診て貰う、勇気もでず。

結局、そのまま又放置することに・・・。

それから1年7ヶ月。

数年前、頬に少し大きなシミができた。

楕円形のそのシミの端の皮膚が少し膨らんでいた。ほくろができてた。

社員食堂の仕事をしてた頃は、そのシミを気にしながらも、その上にしっかりと

ファンデーションを塗ってた。

だけど、仕事を辞め、家に居ることが殆どの毎日で、化粧をすることも、鏡を

見る回数も減り、その後、震災に原発事故で、自分の顔なんか見る気もせず。

6、7月頃になって、出かけることが少しずつ増えてきて、久し振りに化粧を

するため、まじまじと顔を見たら、あれ?このシミの上にできたほくろ、こんなに

膨らんでいたっけ?

気になったから携帯のカメラで写真を撮っておいた。

数日後、引越しのことで母のところに行くと、そのほくろのことを言われ、心配

だから病院に行った方がいいと言われ、それから毎日、そのほくろのことで頭が

いっぱい。

すぐに病院に行きたかったけど、引越し数日前だったので、病院に行くのは

引越し後にした。

母の通院先でもある総合病院を教えて貰い、同じく皮膚科に通うことになる

次男と一緒に行って来た。

その頃には・・・と言ってもたった数日だけど、ほくろが又変形していた。

そのほくろを診て貰うついでに、あの数年前からある、耳の裏のふんりゅうも

診てもらった。

耳の裏のふんりゅうは、あくまでもついでだった。

皮膚科の女医さんは、シミの上にあるほくろを診るなり、「イボですね!!

どうします?取りますか?」

私は皮膚ガンだと怯えていたのに、イボ!?思わず「イボなんですか!?」と

聞いてしまった。

な~んだ、イボだったの!?・・・ホッとしたのも束の間。

耳の裏のできもの、ふんりゅうだね、なんて女医さんも最初は言ってたけど、

「あれ、ふんりゅうではないかも・・・。ちょっと気になるんだよね・・・。」

それからそのできものの写真をとって、大きさを測って、形成外科の先生に診て

貰うように指示され、イボの処置をし、形成外科の予約を取って帰って来た。

その日から、今度は耳の裏のできもので悩むことに・・・。

形成外科の先生は他の大学病院から来てて、診察は週1回。

もう、悩んでもしょうがない。今まで何年もほったらかしにしてきた自分が悪い。

形成外科の先生も、ふんりゅうではない、ちょっと悪い感じがする。

傷があるのが気になる、ただれているのが良くない、一部をとって検査するより

全部とって検査した方がいい、結果が出ててから、その後の対処を考えましょう、

診察室から出る時に、余り心配しないようにと優しく言ってくれた。

手術の時も、そのできものを診て、やっぱりちょっと良くない感じがある、検査に

出した方がいい、と言いながら、でも、そうでもないかな?と。

背中のほくろの時の皮膚科の先生は、大体、良性か悪性かは診てわかると。

だけど、この総合病院の皮膚科の女医さんも、形成外科の先生も、このできものは

診ただけでは判断できないほど、変だったんだと思う。

検査の結果は2週間後と言われてたけど、1週間後の診察で、結果が出ていて

心配はないと言われて心の底からホッとした。


今回のことで、いくら病院嫌いでも・・・好きな人はいないだろうけど、検診は

きちんと受けようと思った。

次男が一人立ちするまで、ステンドグラス教室に通って、たくさんの作品を作り

あげるまで、それに、皆さんとお会いするまで、この日本が、世界が、良い方向に

向っていくまでは頑張って生きて生きたい。
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醜い心再び

2011-08-12 11:44:39 | 私のこと
自分の母親とは言え、同居はやっぱり難しい。

もともと相性の悪い私と母、同居することになった時、心配したのは

私の旦那と母の旦那さん。

周りが心配するほど私と母は衝突してた。

だけど震災後、心を入れ替えたと思ってた私。

同居3日目にして爆発・・・そうそう性格は変えられないことを実感

同居翌日に、あーしろ、こーしろと命令する母。

母の家だから仕方ないけど・・・。

旦那が仕事から帰って来た気配がすると、母が私に玄関で出迎えろと。

内心、「えっーーー、なんで!?」私は母が父を玄関で出迎えてたところを

1度も見たことがない。

その日の朝も旦那が出勤する時に、母に起こされた。

旦那が出勤するのだから、見送れと。

母の言っていることは正しいことだけど、我が家は我が家のやり方があって

結婚生活25年で多少の変化があり、今があって、それで落ち着いてる。


その日は旦那が翌日の姪っ子の結婚式に出席するため仕度をしていた。

その時になって、白い下着はない?

着て行く服がないと言い出す。

なので時間があるから行く前に買って行こうと言えば、うんとは言わない。

家にあるシワシワの服を着て行こうとする。

それで私が旦那に「全く今頃になって!!」と怒り出したら、母が口を挟んで

「女なんだからお前が用意しろ!!」と母が私に怒鳴ってきた。

それまで小言に我慢してきた私もつい「じゃ、あんたは私に何してくれた!?」

と、怒鳴り返してしまった。

その後一旦は収まって、旦那を駅まで送って行った。

その日の夜になって、母と2人で話をしていたら、又、昼間の話になって、

そこから言い争い。

母は「私はお父さん(母の旦那さん)と喧嘩をしても泣いたことないけど、

お前には本当情けなくなって涙が出る。悔しくて涙が出る」と泣かれてしまった。

母に対しての複雑な気持ちは、このブログにも散々書いてきた。

母が母親らしいことを言う度、私の心の中でイライラが募る。

どこかでいつも「じゃ、あなたはどんな母親だったの?」と思ってしまう。

朝方、地震が起きるまで言い争いは続いた。

お互い感情的に言い争ったかと思えば、時々冷静になったり、その繰り返し。

結果、母に言われたのは、お互いこのままじゃ良くない、家賃はいらないから

お金が貯まったらでいいから、別に暮らした方が良い、一緒には住めない、と。

同居数日で言われてしまった。

言われた直後はちょっとショックだったけど、ある意味、自分が蒔いた種でもあるし、

ただ、覚悟して同居したはずなのに、覚悟が足りず、本当情けない・・・。

母に対してどうしても優しくなれない。

年取った母にどうしても憎まれ口を叩いてしまう。

話をすればするほど平行線が続く。どこまで行っても交差することはない。

その後も母と雑談していると、長く会話していると、その内、言い争いになってる。

特に2人だけで会話してると、誰も止める人がいないと、エスカレートしてしまって

結局言い争いで終わる。

旦那や母の旦那さんがいると、途中で上手く止めてくれるので、言い争いまでには

発展しないんだけど。

毎回、毎回、言い争いの後は後悔の気持ちでいっぱいになる。

そんな気持ちになるんだったら、我慢すればいいのに、どうしても母を前にすると

止まらなくなる。

多少の衝突をしながらも楽しく過ごせれば・・・と思ってたけど、衝突後は必ず

心が寂しくなって仕方ない。

母との喧嘩が情けなくて寂しいのもあるけど、とっても心が虚しくなる。

この空虚感は何なんだろう?

独り暮らしをした長男が心配なのと会えない寂しさもある?

全く知らない土地ではないけど、引越しが原因?

体調のこと?

旦那の通勤が思ってた以上に大変そうなこと?

次男のこれからのこと?

まだまだ続く地震?原発事故?世の中の惨事?

全部ひっくるめたことが原因で、これは更年期障害からくる軽い?ウツ状態?

1日中じゃないけど、夕方になってくると、世の中に自分独りだけ取り残されたような

寂しさ・・・。


旦那の姪っ子の結婚式の話も素直に聞くことができなかった。

結婚式には旦那と私の夫婦で呼ばれたけど、私は欠席した。

7月に旦那の親から現金書留が届いた。

旦那宛だったけど、現金書留なので、何で?と思い、開封した。

義母の手紙が入っていて、お祝い金の足しにするように、前日夜はみんなで中華街で

食事をする、(我が家の)長男、次男にも会いたいと書いてあった。

もちろん、私の名前などはどこにも見当たらず・・・

私が結婚した頃、義両親+旦那兄家族+兄嫁の両親+旦那妹で温泉旅行だとかで、

義父が今度は○○(旦那の名前)のところも招待するからと言ってくれたけど

その後、1度も招待されず・・・。

その後、義妹が結婚して、その団体旅行には義妹の旦那もプラス。

その後、ディズニーランドに行ったとかの話は旦那を通して聞いたけど、当時埼玉に

住んでた私たち家族は誘っても貰えず・・・もちろん行かないけどね。

今回、義兄の長女が結婚したんだけど、その式には、妹夫婦と娘、家族揃っての招待。

今までの付き合いが違うのだから、我が家の息子たちが招待される訳ないんだけど。

結婚式から帰って来た旦那が携帯に撮った写真(殆どピンボケ)を見せながら、

嬉しそうに前日の中華街での食事から式当日の話をする。

ふーーーーーーん、良かったね、あんたの実家は!!!!!

私たちが結婚する時、旦那実家に猛反対されて、嫌な思いをたくさんして、それでも

結婚当初は少しでも仲良くなりたくて、義母に手紙書いたり、私は私なりの努力もした。

思い出すのは旦那実家でやっと結婚を許してもらった時、義父が「嫁になるんだったら

デンと座ってないで、(家事を)手伝って来い」と言われ、義母、義兄嫁、義妹の3人が

いるキッチンに「何をしたら良いですか?」と聞いたのに、3人ともすぐに返事を

してくれず・・・。

私だってやりたくなくてデンと座ってた訳じゃない、まだ結婚も許してもらえずにいたし、

女3人がいるキッチンに、しかも3人とも歓迎してくれてないのはわかっていて、誰ひとり

味方のいないところに入っていくことができないでいただけ。

結婚前に義妹を巻き込んで、旦那と大喧嘩してしまって、原因は義妹ではなく私にある。

そのことに関しては自業自得なんだとわかってる。

だけど、全て私が悪かったの?あなたたちの息子は全く悪くないの?

優しい息子を私が操っていると思ってるの?

悪い女に引っかかってしまったから、息子は何度も転職をし、借金をしたと思ってるの?

旦那が最初の転職後、義父が「男が1度勤めた会社はずっと続けるものだ」と。

小学校の先生しかしたことのない義父(それはそれで立派なことだけど)に、世間一般の

会社のことをどの程度知ってるの?

あなたの息子は条件が悪くて辞めて行く社員の穴埋めをするため、結局、追い詰められ

精神的に参ってしまい、登社拒否になったのを知ってる?

会社から電話が掛って来て、会社に行ってないことを知らされ、私は心配になって自転車で

探し回った。

そんなこともあり、退職を決意したのは旦那で、辞めさせたのは私ではない。

だけど、会社の専務(結婚の時の仲人さん)から自宅に電話があり、私に「世話して

やったのに、恩を仇で返すとは・・・」と文句を言われた。

旦那はズルイ!!優柔不断に見えるから、どうしても陰で糸を引いているのは私だと

思われてしまう。

何かあるといつも旦那ではなく、私のせい。

それでもまだ旦那に対して愛情というものがあった時は、我慢できた、耐えることも

できた。

だけど、旦那に対して愛というものがなくなった時に、何でこんな男のために、私は

散々嫌な思いをさせられてきたんだろう・・・。

私を除け者にした旦那実家に対しての恨み辛みが、旦那が嫌いになればなるほど

大きく膨らんでいった。

去年の春先はそんな気持ちが最高潮だった。

その当時は殆ど旦那と口も利かず過ごしてた。

それが新しくパソコンを買ったことで、取り付けてもらうのに、久し振りに会話する

ようになって、徐々に普通に会話するようになって、震災後は愛はなくなったまま

だけど情が復活。

それと同時に旦那実家に対しても大らかな気持ちになれた。

少しずつ自分から歩み寄ろうと思えるようにもなった。

ここ数年、旦那実家からの電話は私は取らないでいた。留守電のままにしてた。

旦那実家から年2回は必ず電話が掛ってくる日がある。

それは母の日と父の日。

父の日に、義母からプレゼントのお礼の電話があり、久し振りにちょっと話した。

たったそれだけだけど、私にとったら、進歩。

電話に出るのでさえ、嫌だったんだから。

いっぺんには変われないけど、少しずつ変わっていこうと決意したのに、だけど、

私や息子たち(息子たちは何も思ってないけど)を抜きにして、幸せいっぱいの

話や写真を見たら、収まっていた感情が又ムクムクと蘇ってきた。

私は最初から嫌われてた。私にも原因があったにしても、息子たち、孫くらいは平等に

可愛がって欲しかった。

あの人たちの中には私や息子たちの存在なんて全くない。

義妹の結婚式で、義兄嫁の父親がニコニコしながら義父に「これで嫁に出す父親の

気持ちがわかったでしょう?」と言ってるのを聞いて、私の隣に座っていた、私の

父が気の毒になった。

私は猛反対され、しかも両家の初顔合わせを何度もキャンセルされ・・・旦那親は

結婚に反対だったから顔合わせするつもりがなく、旦那がそのことを私と父に言えず、

顔合わせのその日になって、なかなか仕度をしない旦那を不審に思い、問いただすと

予約したお店に来ないことを知らされ、何でもっと早く言わないんだ!!と私に責め

られ、旦那は車でどこかに逃げてしまったことがあった。

そんな時にも父は旦那のことを責めるわけでもなく、結婚後も旦那のことや旦那実家の

ことで不満を言ったことは1度もなかった。

私と義妹は出来が違うのはわかる。だけど、娘を持つ同じ父親として、もし自分の娘が

私と同じようにされたら?と考えたことがあるのか?

優しい息子なんかじゃない、ただの優柔不断の息子なんだってことに気が付いて欲しかった。

そしてそんな優柔不断の息子が優しいお嫁さんをもらえるはずがないってことにも。

旦那実家のこと、自分の中で消化できたと思ってたのに、やっぱり私は未熟な人間。

心の狭い人間。

母との喧嘩で、旦那実家でのお祝い事で、私の醜い心が噴出した。

心の中で思ってるだけにしておけばいいものを口に出してしまう。

「自分がされてきたことを考えると、あんたの実家の幸せが許せないと思ってしまう。

どうしたらそんな気持ちにならなくなるのか教えて欲しい!!」と旦那に叫んだ。



母と長いお喋りをしていると、最後には必ず言い争いになってしまう。

いつまで経っても母を許せない自分がいて、そんな自分が物凄く嫌だし辛い。

持病を抱えていて、すぐに動けなくなっている母に、何でもっと優しくなれないのか?

自分の母だから、嫌いじゃない、もちろん好きなんだけど、つい感情的になってしまう。

言い争いの後に沸いてくる悲しみと寂しさ。だけど止めることができない。

母の希望通り、今すぐはムリだけど、1年後くらいはここを出て、もう少し離れたところに

引越す。母の言うとおり、それがお互いのためだと私も思う。


旦那実家のことも結婚式が終わった直後は醜い感情が出てしまったけど、旦那に吐き出し

たら、いくらかすっきり。しかも2週間くらい経ったら、落ち着いてきた。


震災直後のそれまでの自分の悩みが、何て贅沢でくだらないことだったのかを思い知らされ、

それなのに、咽喉元を過ぎてないのに熱さ忘れるところだった。

あんなに今までのことに感謝してたはずなのに・・・。


自分でもこの感情の起伏は更年期障害なのか?わからない。

ここまで書いててもダラダラと支離滅裂・・・。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございます














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JTからのプレゼント?

2011-08-06 00:41:15 | 日記
震災後、止めたことが2つ。

1つはパチスロ。

5、6年前、次男が目の手術をしたのをきっかけに1度は止めた。

止めることが出来た。

だけど、その後、勤めてた仕事場にパチンコ大好きおばちゃんがいて、毎日のように

パチンコの話を聞かされ、しかも勝った話ばかり。

そんなある日、次男の用事で車で出掛け、その用事が終わるまでの数時間を潰すため、

ついついパチンコ屋に入ってしまった

最初の予定ではファミレスで過ごすつもりでいたのに・・・。

それがきっかけでパチスロ復活


行く回数は少なかったけど、月に1~2回は行ってた。

ジャグラーと言う機種にはまってた。

当たるとgogoランプがつく。そのランプがついた時の興奮。

ガゴっと言う告知音に毎回びっくりしてしまうんだけど、それが快感。


もう1つはタバコ。

このタバコもパチンコ大好きおばちゃんの影響

仕事場で毎日、毎日、このおばちゃんの副流煙を吸わされていたから、失業して、

おばちゃんに会えなくなったら、やたらとタバコが吸いたくなってしまい、とうとう

生まれて初めて自分のためにタバコを購入。

喫煙者になって4年。その間に何度か禁煙したけど、失敗。

震災後、少しの間は吸ってたけど、余震と原発事故のお陰で、吸いたいと思わず、

残っていたタバコは旦那にあげた。


昨日、母が我が家宛の郵便物を渡してくれた。

その中にピンクの箱があった。

何だろう?と見てみると「PIANISSIMO」とある。何となく聞き覚えがある。

だけど最初は何かわからず。どこかのカタログ?と思いながら、開けてみると・・・。

何とタバコが1箱JTからで「PIANISSIMO」が。

このタバコを吸うようになって、懸賞に応募するのに会員になってたけど、まさか

タバコが送られてくるとは!!

震災後、数名柄、数量を限定して出荷してきたそうだけど、出荷を再開することに

なったそうで、そのお知らせのため?迷惑をかけたから?

禁煙してなかったら、とっても嬉しかったけど・・・

はっきり言ってありがた迷惑!!

母は旦那にあげろ!!旦那は俺によこせ!!って言うけど、あげられない。

手の届くところに置いてある。

火はつけなくても、口にくわえて、メンソールの匂いを吸ってみたいな・・・


それにしてもJTのやってることは

震災を機に禁煙した人たちを呼び戻すため、タバコを送ってきたとしか思えない
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品川までドライブ

2011-08-04 10:31:19 | 日記
引越して1週間。

まだまだなのか?もう?なのかも分からず、何も感じず・・・

とにかくいろいろとあって、そのことはゆっくり後で書くことに。



昨日は次男のお供で品川のステラボールに行って来た。

最初は次男と2人、電車で行くつもりで、旦那に駅まで送って貰うことに

なってたけど、品川までドライブがてらに送ってと何気なく行ったところ、

絶対拒否すると思ってたのに、少し考えて「行ってみるか、ナビもあるし」と。

もうびっくり

我が家が今まで乗っていた車は長男に渡し(冷房が効かない)、今我が家は

母の旦那さんのセカンドカーを借りている身分・・・。

新しい車ではないけど、殆ど乗ってない車で綺麗だし、何よりも冷房が

ガンガンに効くのが

60代の人に多い、車のシートに白のレースのカバーとクッションがやたらに

多いのは気に入らないけど


それにしても本当、久し振りに車で都内に行ったけど、何だかとっても

不思議な気持ちになった。

品川周辺に着いたのが6時前後。

ちょうど帰宅ラッシュでサラリーマンの人たちも多かったけど、とにかく

人、人、人・・・。

私も20数年以上(30年近くと書いた方が正確)前、あの人混みの

中の一人だったんだな・・・。


宇都宮に居た時は、窓を閉め切って、洗濯物も部屋干し、水道水は使わず、

野菜はなるべく九州産、魚は去年獲れたはずの冷凍物、卵、牛乳も東北・関東を

避け、外出する時は暑くてもマスク(私の場合、ほうれい線隠し)。

息子たちのために、そうしてきた。

旦那は原発事故後、工場の復興作業で殆ど外に居たらしく、放射線浴びまくり

まぁ、旦那も私も50前後だから、いいけどね。

独り暮らしを始めた長男には水道水を使うなと、ミネラルウォーターを箱買いして

置いてきたのと、食べ物には気をつけるように言ってあるけど、外食やコンビニで

買ってたらムリだよね。

だから、なるたけ気をつけるように言うしかない。北関東に住んでいる限りムリだし。


独り暮らしする長男以上に心配なのは次男。

引越し先が茨城県の古河市。

茨城県内でも放射線量がいくらか低いところ。

だけど、母との同居で、全窓全開、洗濯物・寝具はベランダに干し、水道水も

ガンガンに使い、出てくる野菜はもちろん茨城産。魚もやたらと出てくる。

私が放射線の恐さをいくら言っても、口では「全くやんなっちゃうね」と頷きは

するけど、だからって全く気にせず。

ウーロン茶やお茶はペットボトル(市販なだけ少しはまし)なんだけど、氷水は

水道水で作ったもの。

その氷をたくさんコップに入れて出してくる。

もう、もうね、ここに住む限り、長生きはできないね・・・と次男に言った

次男は次男なりに気をつけてるみたいだけど。

周りの家を見ても、殆どの家が洗濯物を外に干してる。

スーパーに行っても、まだ小さい子がいるお母さんたちも、食べ物に全く気を

つけてるようには見えない。

最近では私の中で、放射線なんかとんでないのではないか?と思うようになってきた。

今朝も寝具類をベランダに干し、窓は全開にしてる自分がいる。


昨日の品川周辺で思ったのは、みんな放射線なんて気にしてない。

福島原発から離れているからなんだろうけど、だけど、放射線はとんでるはずなのに。

マスクをしていたのは私だけだった

毎日、毎日、放射線なんか気にしながら生きてられない。

日々の生活が忙しいからなんだろうけど。

都会の高層のマンションに住んでいる人たち、茨城の家に引越した我が家、未だに

避難所で生活を強いられている被災者の人たち。

みんな同じ日本に住んでいるのに・・・と思うと、とっても不思議な気持ちになった。


これから、この先、日本という国はどうなっていくんだろう・・・とも思った。


宇都宮の空も広かったけど、古河の空はもっと広く、都会の空を久し振りに見たら、

意外にも広くてびっくりした。

最近は空がやたらと広く見えるのは、今まで、空を見てるようで見てなかったから?











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