かつて「一造」「二造」と呼ばれた、
大規模な兵器製造工場があった北区十条と、
それに隣接する板橋区の加賀をぶらぶらした時のリポート。
一造と二造はそれぞれ
「東京第一陸軍造兵廠」「東京第二陸軍造兵廠」の略称で、
一造は主に弾薬、二造は主に火薬の製造工場、
周辺の関連施設を合わせると、
東京23区では最大規模の軍事施設でした。
いまでこそ殆どの施設は解体撤去されていますが、
平成元年(1989)の航空写真を見ると、
まだその時点では相当数の施設が残存していたことがわかります。
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「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省」より引用
前回アップした一造の外塀からJR埼京線沿いに南下すると、
左手に東京家政大学の大きなキャンパスが見えてきます。
以前アップした軍都 戸山ヶ原にも学習院女子大があり、
その敷地内に陸軍の遺構が残存するのと同様に、
ここ十条でも、嘗ての陸軍の敷地の一部は女子大に転用され、
しかも敷地内に当時の遺構が残存しています。
家政大学の敷地内の遺構の話は後日するとして、
埼京線を更に南下するとやがて石神井川へ突き当たります。
完全に護岸された開渠河川になっている石神井川ですが、
両岸に植え込まれた桜が大きく成長していて、
昼尚暗めの、夏だと涼しい緑地帯が広がっています。
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そしてその川岸にある加賀公園は、
嘗て江戸時代には加賀前田家下屋敷だった敷地の一部です。
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明治九年 (1876) に加賀屋敷の敷地を転用して作られた
火薬製造所がベースになった広大な二造は、
いわば東京の弾薬庫とでも言うべき場所でした。
鬱蒼と生い茂る公園の中央には小高い丘がありますが、
かつて前田家の屋敷だったときの築山跡だそうです。
軍都戸山ヶ原の中には、尾張徳川家の下屋敷があり、
庭の築山「箱根山」がありましたが、
ここ十条でも築山をもつ武家屋敷跡が軍用地に転用され、
やがて公園として再利用されるという、まったく同じケースです。
公園の一角に、なんの説明もつけられず、
ひっそりと軍時代の射撃練習用の的跡が眠っています。→Mapion
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二造で開発された火薬の試し打ちが行われた場所でしょうか。
今ではそう言われてもまったく当時を偲ぶことはできません。
◆軍都 十条逍遙◆
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帝京大学の中にも「かつては軍の弾薬庫だったのでは?」と想わせる、やたら分厚い煉瓦壁に覆われたドーム状の倉庫が残っています。
60歳以上の人たちに話を聞くと、あのあたりは戦後米軍に接収され、朝鮮戦争の折には、半島へ赴く米軍戦車隊が道路をキャタピラで砕きながら行進する(厚木基地から空母で半島に輸送されたのだとか)壮景が見られたとか。
出勤途中に、朝っぱらから開いてる築50年以上の大衆酒場を見ますが、これも日米工廠労働者の多かった当時の生活の記憶(生きた化石とも言う)なのかな、と思います。
帝京大学の構内にかつての遺構があるのは知りませんでした。
貴重な情報をありがとうございますm(_ _)m
戦車がアスファルトを砕きながら行進する壮景。
さぞ凄かったんでしょうね。
朝っぱらから開いている大衆酒場で思い出しましたが、
撮影に行ったときに昼飯で入った定食屋さんでは、
15人位のお客さんの8割位の人が呑んでました。
日曜というのもあったのかもしれませんが、
「十条は昼酒の街」という印象もついてしまいました(笑
これから少しずつアップしていきますので、
また遊びにいらしてください。